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鶴山霊石の神秘

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ページの作成:「'''鶴山霊石の神秘'''(つるやまれいせきのしんぴ)は、石原雍久の著述。『おほもと』昭和48年(1973年)12月号64~71頁に…」
'''鶴山霊石の神秘'''(つるやまれいせきのしんぴ)は、[[石原雍久]]の著述。『[[おほもと]]』昭和48年(1973年)12月号64~71頁に掲載された。内容は題名通り、鶴山([[本宮山]])山頂に安置された霊石(山梨県明見村から運ばれてきた富士山の溶岩)にまつわる神秘についてである。

後ろ半分(68~71頁)には「'''霊石の奇蹟'''」という文献が収録されている。これは[[和田謙太郎]]と[[佐藤紋次郎]]が語った逸話を[[西田豊太郎]]が記録したものである。佐藤が昭和18年(1943年)11月5日に[[湯浅仁斎]]と共に大阪の西田宅を訪れて物語り、11月15日に完成したことが序に記されている。<ref>『[[たまほこのひ可里]]』が完成したのはその三ヶ月ほど前の8月25日である。</ref>

前半は[[和田謙太郎]](元・判事)が語った逸話である。延暦21年(802年)の富士山大爆発<ref>延暦19~21年に富士山が爆発したことが日本後紀に記録されている。</ref>により、山嶺から8里離れた山梨県南都留郡明見村(あすみむら。現・富士吉田市小明見~大明見)の舟久保邸の庭前に、霊石が飛んで来て落下した。舟久保家では「木花咲耶姫の御神霊」といして社殿を建てて霊石を祀った。〔69頁上段〕

大正8年(1919年)頃、[[王仁三郎]]は霊夢によって、霊石が舟久保邸にあることを知り、幹部役員の[[豊本景介]]に命じて譲ってもらうよう交渉させたが話がまとまらなかった。昭和8年(1933年)春、大本信者の和田謙太郎がたまたま旅先で舟久保と出会った際、霊石を大本に譲るよう熱心に頼んだところ、舟久保はそれを承諾した。〔69頁上~下段〕

富士の霊石が綾部に運ばれ、[[本宮山]]の上に安置された。王仁三郎は非常に喜んで、霊石に向かい「よう来た、よう来た、早う来たかったであろう」と言って指一本で撫でると、重量180貫(675キロ)もある霊石がコトコトと動いたので、そこに居た人々は驚いた。〔70頁上段〕

[[第二次大本事件]]でこの霊石も破壊されることになったが、土方の親方がハンマーで2~3回打ったがカンカンと響き壊れないので、壊れた他の石と一緒に土中に埋め、警察へはみな破壊したと報告した。〔65頁下段〕

「霊石の奇蹟」の後半は、[[佐藤紋次郎]]が語った逸話である。孝明天皇の御宸筆(遺勅)や[[切紙神示]]の一部分(いずれも『[[たまほこのひ可里]]』には記されていない内容である)に、皇紀2600年(昭和15年)になれば綾部の本山(モトヤマ)に神光(ヒカリ)が出るとあるが、それはどういうことか佐藤は綾部に行って調べてみた。すると次のようなことが分かった。第二次事件後の昭和14~15年の春、81歳の老婆が、本宮山の上から火が灯っている夢を見た。ある夜、実際に本宮山に火が灯っているのを見て、山に登ってみたところ、霊石から光が出ていた。本宮山山頂のお宮が事件によって壊されたことにより、「宮」が無くなって「本山」になったのである。佐藤は切紙神示が一言一句間違いのないことに驚嘆した。〔70~71頁〕

「霊石の奇蹟」を書いた一ヶ月後の昭和18年12月15日に、文章を王仁三郎に見せたところ、本宮山の霊石から発せられる光は、古事記の「天の一つ火」であると王仁三郎は教えた。〔71頁下段〕

== 外部リンク ==
* <wp>明見町</wp>

== 脚注 ==
<references/>

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[[Category:文献]]

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