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愛善歌集 瑞の光

563 バイト追加, 2022年3月24日 (木) 04:42
愛善歌
== 愛善歌 ==
[[野村芳雄]]が作曲した愛善歌の初の発表は、王仁三郎在世中の昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)は昭和22年(1947年)6月頃、愛善苑委員長の佐賀伊佐男から作曲の依頼を受けた。<ref>『愛善苑』昭和23年(1948年)6月1日号p15の野村芳雄「愛善歌を作曲して」に次のように書いてある。「私が初めて委員長より作曲の委頼を受けたのは、昨年六月頃であつた。聖師歌集「愛善の道」を頂き(略)」「(略)十曲を斎し、亀岡瑞祥館に赴いて聖師の枕辺に歌つてお聞かせ致した処、殊の外御満悦を頂いた由、後程承り(略)」。</ref> <ref>『[[瑞生祭大本七十年史]]<ref>王仁三郎の77歳(数え年)の誕生日であり「喜寿生誕祭」と名づけられたが王仁三郎の指示により「瑞生祭」に改められた。 下巻』「{{obc|B195402c7225|芸術への精進}}」に、昭和22年(1947年)5月8日に開かれた献茶式の際に『愛善の道』の中から歌が選ばれたようなことが書いてある。「五月八日には本部道場の神前で、裏千家家元の千宗室により献茶式がおこなわれ、中野岩太の素謡・仕舞の奉納があった。来賓はじめ約四〇〇人が参列した。 同日、苑主の歌集『愛善の道』のなかからえらんだ歌を同志社高女教諭野村芳雄が作曲した。そして六曲の発表が本部青少年の合唱によっておこなわれた。」</ref>においてである。最初は「愛善讃美歌」と呼ばれた。
野村が作曲した愛善歌(最初は「愛善讃美歌」と呼ばれていた)は、昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)[[瑞生祭]]<ref>王仁三郎の77歳(数え年)の誕生日であり「喜寿生誕祭」と名づけられたが王仁三郎の指示により「瑞生祭」に改められた。</ref>において発表された。 {{inyou|さきに苑主歌集として出版された「[[愛善の道 (歌集)|愛善の道]]」を広く一般に普及するため同志社高女教諭野村芳雄氏にその作曲方を依頼していた所<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7225|芸術への精進}}」に、昭和22年(1947年)5月8日に開かれた献茶式の際に『愛善の道』の中から歌が選ばれたようなことが書いてある。「五月八日には本部道場の神前で、裏千家家元の千宗室により献茶式がおこなわれ、中野岩太の素謡・仕舞の奉納があった。来賓はじめ約四〇〇人が参列した。 同日、苑主の歌集『愛善の道』のなかからえらんだ歌を同志社高女教諭野村芳雄が作曲した。そして六曲の発表が本部青少年の合唱によっておこなわれた。」</ref>、今般それら美しいメロディのかずかずが完成され、廿七日午後二時より道場においてその発表会が催された、野村氏指揮の下に亀岡美珠会、本部奉仕青年編成のコーラス団が歌う瑞声、進展、黄金、憧憬、童歌、青年調の六曲」を広く一般に普及するため同志社高女教諭野村芳雄氏にその作曲方を依頼していた所、今般それら美しいメロディのかずかずが完成され、廿七日午後二時より道場においてその発表会が催された、野村氏指揮の下に亀岡美珠会、本部奉仕青年編成のコーラス団が歌う瑞声、進展、黄金、憧憬、童歌、青年調の六曲<ref>6曲とも「瑞の光」に収録されている。</ref>はオルガン伴奏に乗つてゆるやかにスピーカーから流れ出た(以下省略)|『[[愛善苑 (機関誌)|愛善苑]]』昭和22年(1947年)瑞生祭記念特集号(第20・21合併号、9月15日発行)p8の4段目}}
* 昭和23年(1948年)6月1日に楽譜付きの『愛善歌 第一集』が、10月1日に『愛善歌 第二集』が発行された。<ref>「大本年表」による。</ref>

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