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田中たま

218 バイト追加, 2020年2月12日 (水) 00:42
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* 名古屋の八事(やごと)(現在の名古屋市天白区から昭和区にまたがる地名)に住んでいた<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>。
* 明治22年(1889年)12月20日、娘の[[家口いく|いく]]を産む<ref name="sensyuu_4_p222" />。
* いくが生まれて数日後に、名古屋市長(中村修)が熾仁親王に報告に行っているようである。熾仁親王はそのしるしとして、短冊とルビーの指輪と産着をたまに与えた。短冊の歌は「玉矛(たまほこ)の道ある世をぞ仰ぐらん万(よろず)の民もひとつこころに」で、いくが生まれて数日後に、名古屋市長(中村修)が熾仁親王に報告に行っているようである<ref>『[[有栖川宮熾仁親王日記]] 巻五』p269、明治22年(1889年)12月24日の項に、「愛知県名古屋市長中村修」が熾仁親王と「面謁」したことが記されている。</ref>。熾仁親王はそのしるしとして、短冊とルビーの指輪と産着をたまに与えた。短冊の歌は「玉矛(たまほこ)の道ある世をぞ仰ぐらん万(よろず)の民もひとつこころに」で、[[王仁三郎]]はそれを見て「これはみろくの世のお祈りの歌じゃ」と言った。ルビーの指輪はたまから、娘のいくに渡り、[[出口栄二|栄二]]が結婚する時、[[出口直美]]に贈られた。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>
* たまにはいくの他にも子供がいる。佐分慎一郎との間に4人の子供がいた。その1人に画家の佐分真(さぶり まこと、1898~1936年)がいる。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223~224</ref>
* 昭和19年(1944年)9月29日、死去(78歳)<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p221</ref>。

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