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王仁三郎は移り住んだ時に、「実は未決(注・未決監)から出るのが一年早く、その間二階にいたが、三代(注・直日のこと)が空けてくれたので下におりることになった」と言い、そしてこの家を「熊野館」と命名した。王仁三郎は移り住んだ時に、「実は未決(注・未決監)から出るのが一年早く、その間二階にいたが、三代(注・直日のこと)が空けてくれたので下におりることになった」<ref>『おほもと』昭和44年(1969年)5月号、木庭次守「ミクマノの神業(上)」★要確認★『いづとみづ』昭和60年(1985年)1月号P25からの孫引きなので『[[おほもと]]』昭和44年(1969年)5月号、[[木庭次守]]「ミクマノの神業(上)」p59</ref>と言い、この家を「熊野館」と命名した。<ref>『[[いづとみづ]]』昭和60年(1985年)1月号P25</ref>
熊野館
,編集の要約なし
その頃、熊野館には[[出口直日]]一家が住んでおり、王仁三郎夫妻は[[有悲閣]]の二階に住むことになる。昭和18年6月、直日一家が但馬の竹田町に移転した後、熊野館に王仁三郎夫妻が移り住んだ。また三女の[[八重野]]・[[宇知麿]]一家も同居した。<ref name="daisanji_p46">[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
王仁三郎の指示により熊野館の建物や庭が拡張されて行った。庭の北西隅<ref>「愛善苑新発足の中心・熊野館」では「北西隅」、『第三次大本事件の真相』では「北側」、『大本七十年史』では「西側」</ref>には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池<ref>『第三次大本事件の真相』では「鏡池」、『大本七十年史』では「富山池」とあるが、「愛善苑新発足の中心・熊野館」によると作業をした奉仕者の作田勇平と坂田三郎が富山出身のため王仁三郎はこの池を一時「富山池」と名付けたが、それは仮の名で、池が完成してからは「鏡池」と改名された。</ref>と命名された。この二つは[[富士と鳴戸]]になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に[[月山富士]]と[[金竜海]]が造られた。また築山には「[[みろく松]]」が植えられた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref name="B195402c6432" /> <ref name="izutomizu_198502p35">『いづとみづ』昭和60年(1985年)2月号p35-38、出口和明「愛善苑新発足の中心・熊野館」</ref> <ref>『新月の光』0595「曲水の宴(聖師邸の富山池)」</ref>