文献 (小部分)
書籍・雑誌記事などに、ほんの少しだけ王仁三郎関係の記述があるものをここにリストアップする。
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- 『歩兵第六十七連隊文集 第一巻』
- 昭和38年(1963年)1月、六七会、全522頁
- 第七中隊中隊長の四方源一郎が書いた「あの日あの時」(221~236頁)の最後の頁(236頁)に、四方の父が「熱烈なる大本教の信者」であり、自分が携帯した軍刀に「出口王仁三郎氏の守護の拇印」が押されてあり、敵機の銃弾が軍刀の背に命中したため自分には何の怪我もなかったという御神徳談が記されている。
- 『社会の動揺と精神的覚醒』
- 姉崎正治(宗教学者)・著、大正9年(1920年)、博文館
- 「激変と迷信噪言、大本教」(68~76頁)を始め随所に大本批判が記されている。
- 平凡社『大百科事典 第4巻』
- 昭和7年(1932年)
- NDLDL蔵書 PID:2987693/1/15
- オーモトキョー 大本教 出口直(一八三六-一九一八)の所謂御筆先に現はれた一種の終末観を中心とする神道的教義に基づき、これを出口王仁三郎や浅野和三郎等が入念に体系化し、その宣伝によつて非公認の教団組織を成すに至つた一宗教である。直は五十七歳の時、突如として神憑り状態に入つて自動手記をなし、その身に憑いてゐる艮の金神の神告を記すのであると信じた。これが本教経典御筆先の端緒であり、それによる種々の予言と祈祷とは、付近の人々の尊敬するところとなつた。後、王仁三郎(一八七一-)が直の末女純子と婚し、本教の枢機を握るや、鎮魂帰神法と称する降霊、または奪魂の術を信者に施し、教義説明についての言霊学を提唱して、これらを御筆先と共に本教の三根本要素とした。その後、浅野が本部綾部に移住して宣伝に従事すると共に、従来の地方的な民衆に止まらず、知識階級の信者をも糾合して、大正九年には早くも信者十万と数へられ、全盛期には三十万余と称せられた。皇道大本教の教義は、先づ第一が御筆先に表はされた三千世界の立替立直し、即ち世界の破壊と再建とであつて、それは各人の魂の入替即ち回心によつて成就し、神都綾部に我が皇室を中心として世界が統一される日を期待するにある。かかる教義と、これに対する信者の熱狂とは、大正九年警察当局の弾劾するところとなり、一時衰運に陥つたが、最近では再び勢力を挽回して綾部に近き京都府亀岡に大規模の神殿及び信徒の宿舎を造つて、教主王仁三郎を中心に全国に宣伝をつづけ、支那、朝鮮及びヨーロッパ大陸にまでも教勢拡充を企画し、多少その実行に着手してゐる。『人類愛善新聞』は現在に於ける本教国内宣伝の有力なる機関誌である。
- 平凡社『大百科事典 新補』
- 昭和14年(1939年)
- NDLDL蔵書 PID:2987837/1/54
- オーモトキョー 大本教 第四巻二頁参照。大正十年に所謂大本教不敬事件を惹起し、第一審、第二審共に最重刑を言渡され、これを不服として上訴、上告審の進行中、畏くも大赦の恩典に浴しその罪責を免除せられたが、その後なほ態度を改めず、教団幹部等の言動は屢々不敬に渉り、国体に反すること多く、而も表面皇道の名を僭して三十余万の大衆を信徒に獲得し、一方満洲地方にあつては紅卍教と結んで勢力を張り、その巨大なる勢力を擁して隠微の間に不逞思想を醞醸し、一種の社会運動に出でんとする形跡あることが認められたので、昭和十年十二月八日、当局は遂に断然たる検挙の手を加へ、教主王仁三郎等を不敬罪並に治安維持法違反として起訴、翌十一年三月十三日、皇道大本並にその別働団体たる昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社などに対し、治安警察法に依つて解散を命じ、同時に綾部、亀岡の両本部、及び東京、松江の両別院は勿論、二分院、九分所、百二十七支所を悉く閉鎖せしむると共に、その関係建物の一切は明治五年八月三十一日大蔵省令第百十八号無願寺院仏像創立禁止取締規則により、五月十五日までに破却或は撤去すべしとの強行命令を与へた。爾来被告王仁三郎等に対し取調を続行すること二年八箇月、昭和十三年八月十日に至つて第一回公判を開廷、のち五十六回の公判を経て、事件は今なほ京都地方裁判所に繋属中である。