加露ケ浜

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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加露ケ浜(かろがはま)は、霊界物語に登場する浜。鳥取県の千代川の河口付近にある。

概要

主なエピソード

明治34年(1901年)7月(旧5月)出雲火の御用出雲大社へ向かった出口直王仁三郎ら一行15人は、千代川を汚い舟に乗って加露ケ浜に出て、加露ケ浜から舟で三保の関に行こうとした。しかし荒天のため加露ケ浜の船問屋(雲井旅館)に泊まることにした。

旅館には伊東祐亨・海軍中将が山陰沿海視察のため泊まっており、出口直は筆先を一枚書き宿屋の主人を通して伊東中将に、よく調べてくれと渡したが、その後何の返答もなかった。

王仁三郎は夜中頃に妙な夢を見た。それは際限なき原野に立っていると東から大きな太陽か月が昇り、だんだんこちらに近づき、澄子の懐へ入った夢だった。この時すでに澄子は妊娠しており、翌年3月に女の子(直日)が産まれたので、朝野に立っていた夢を思い出し「朝野(あさの)」と名付けた。

結局7月6日から8日まで三日間逗留したが、天気が回復しないためコースを陸路に変更し、10里ほど歩き、鳥取県東伯郡橋津村(現・湯梨浜町橋津)から舟に乗って三保の関へ向かった。〔以上第38巻第28章金明水#、『大本七十年史 上巻』「出雲の火のご用#」〕

現実の加露ケ浜

現在は鳥取港(旧称・賀露港)の一部になっている。

歌碑

昭和42年(1967年)7月6日、賀露神社境内に王仁三郎の歌碑(史蹟歌碑、加露ケ浜歌碑)が建立された。縦1m40cm、横2m30cmの青御影石[1]

歌は「海鳥(うみどり)の声かしましく賀露ケ浜(かろがはま)のあしたになきて波の音(おと)高し」。

歌碑の台座には次のような「建碑趣旨」が彫られている。

明治三十四年七月六日旧暦五月二十一日大本開祖出口直子刀自一行十五人は神代よりの消えずの火の御用のため出雲大社への往路当地に到着、三日間逗留された。その間出口王仁三郎聖師には三代教主御出生に因む日輪受胎の厳かな霊夢を見る等の神秘があった、碑面の歌は、昭和八年一月聖師が往時を偲んで詠まれた賀露ケ浜回顧歌十首中より選んだもので文字は出口直日師の筆である

昭和四十二年七月六日

  賀露ヶ浜大本史蹟碑建立有志

脚注

  1. 『大本教学』第7号 収録「出口王仁三郎聖師歌碑集録(木庭次守・記)」(昭和45年2月現在の情報)

関連項目

  • 賀露神社:『大地の母 第7巻』「朝陽の夢#」によると出口直・王仁三郎一行は賀露神社(祭神・木花咲耶姫命、他)に参拝している。

外部リンク