軍人会館

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
九段会館から転送)
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九段会館。平成28年(2016年)9月10日撮影。

軍人会館(ぐんじんかいかん)は、昭和9年(1934年)7月22日に昭和神聖会の発会式が開かれた場所。在郷軍人会の施設で、昭和天皇の即位の礼を記念する「昭和御大礼記念事業」の一環として東京・九段に建設され、同年3月に竣工した。

第二次大戦後は「九段会館」と改称して営業を続けていたが、平成23年(2011年)東日本大震災で天井が崩落し、廃業した。その後、東急不動産が買収し、九段会館の外見の一部を残して高層ビルに建て替え、令和4年(2022年)11月に「九段会館テラス」という名前で開業した。

昭和神聖会の発会式

軍人会館は一般の民間団体には使用させないことになっていたが、昭和青年会がその建設資金の一部を献金していた関係もあって使用することができた[1] [2]

大政翼賛会の発会式

『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)10月12日夕刊 大政翼賛会の発会式が首相官邸で開かれたことを伝えている。本文1行目下「十二日首相官邸でその歴史的発会式を挙行した」
『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)12月11日夕刊 大政翼賛会の東京府支部の結成式が軍人会館で開かれたことを伝えている。本文2~4行目「十一日午後一時から九段軍人会館で結成式並に記念講演会を挙行した」

一部の大本関係書の雛型数運を紹介する下りで、大政翼賛会の発会式が軍人会館で開かれたと記されている場合がある。

【例1】「この昭和神聖会の発会式は、東京九段の軍人会館において、大臣や陸海軍の将官がずらりとならび、盛大に行われたが、それから六年目の同じ日に、第二次近衛内閣が組閣されている。政府が太平洋戦争に踏み切ることを明確に決意したのは、陸相に東条英機をすえた第二次近衛内閣のときである。組閣と同時に日独伊軍事同盟をむすび、仏印に進駐して南方の資源を押さえ、十月には九段の軍人会館で大政翼賛会の発会式を行い、着々戦争の準備を整えた」〔『大本案内』p31[3]

【例2】「六年後の昭和一五(一八四〇)年七月二二日、第二次近衛内閣が組閣される。近衛文麿は陸相に東条英機をすえ、新体制運動を推進するため、国民統制組織である大政翼賛会を創立する。その大政翼賛会の発会式が昭和神聖会と場所も同じ九段の軍人会館で開かれ、その形式、その後の活動状況までそっくり」〔十和田龍第三次大本事件の真相』p55〕

しかし当時の新聞報道によると、大政翼賛会の発会式は昭和15年(1940年)10月12日に首相官邸で開かれている。大政翼賛会東京府支部の結成式が同年12月11日に軍人会館で開かれており、それと混同している可能性がある。

外部リンク

脚注

  1. 大本七十年史 下巻』「創立にいたるまで#」:「一三日には、発会式を七月二二日に挙行することに決定し、会場は九段の軍人会館を使用することとした。軍人会館は一般民間団体には使用させないことになっていたが、昭和青年会が同館の建設資金の一部を献金していた関係もあって使用することができた」
  2. 大国美都雄真偽二道』p174「昭和神聖会の発会へ」によると、会場がどこも予約が入っていて使えず、空いているのは軍人会館だけだったので、大国が強いて請願し「在郷軍人と協同だから許して欲しいという形の請願書」を出さされてようやく許可された。
  3. 『大本案内』は大本本部発行の全82頁の小冊子。昭和63年発行の十刷を使用。初版は昭和50年発行。