西田元教

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西田元教(にしだげんきょう、1872~1958年)は、大本信徒。出口王仁三郎の義弟(妹・雪子の夫)。旧名・森元吉。本名・西田元吉。

略歴

明治5年(1872年)8月1日、和歌山県日高郡上南部村(かみみなべむら)(現・みなべ町の南東部)[1]で生まれる。森為蔵(森為七)[2]・ヒサノ夫婦の次男。

薭田野村奥条(現・亀岡市薭田野町奥条。湯の花温泉の北側の地域)の鍛冶職人・西田三蔵に弟子入りする。西田三蔵には子が無く、その死後、妻イシは元吉を養子にした(明治31年3月13日入籍)。イシは上田吉松(王仁三郎の父)の妹である(先代・佐野清六の娘)。イシは兄・吉松の長女・雪子(王仁三郎の妹。イシの姪)を嫁に望んだ。[3]

明治31年(1898年)夏、西田元吉と上田雪子は結婚する。同32年春、久兵衛池の脇に家を建て移転した。[4]

明治33年(1900年)8月25日、西田元吉は熱病で危篤となる。電報によって綾部から王仁三郎が穴太へ駆けつけ、神前で祈願すると、商売敵から呪い釘を打たれていることが分かった。その釘を抜き取ると熱が冷め、二ヶ月ほど で全快した。これ以後、西田は信仰の道に入り、王仁三郎と共に大本の宣教に従事することとなる。[5]

明治35年(1902年)頃、西田元吉は王仁三郎に命じられ、北桑田・船井地方の宣教にあたっていた。また、大阪市谷町九丁目に住んでいた叔父で鍛冶商[6]松本留吉方に滞在して、大阪での宣教にも従事した。(王仁三郎が大阪宣教を行ったのはこの後である)[7]

明治37年(1904年)10月、西田元吉は王仁三郎に伴い宇津へ宣教に行った際、王仁三郎から「元教」という名を与えられた(このとき宇津に住む小西庄太郎は「松元」という名を与えられた)。[8]

明治44年(1911年)5月5日、大日本修斎会の「正二等修斎」に任命される。[9]

大正15年(1926年)5月5日、宣伝使試補に任命される。[10]

昭和33年(1958年)3月3日、大阪で帰幽。享年85歳。

和歌山県みなべ町徳蔵の田中神社境内に「西田元教翁出生之地」の石碑がある。

大本追放

西田はある時(時期不明だがおそらく昭和2年頃だと思われる[11])王仁三郎によって大本から追放された。次は西田の親戚の森恵昭による回顧談「カミにも裏表あり」(#参考文献参照)に記された西田の発言である。

(略)誰がどう言おうとも聖師一筋、神業一途で頑張ったのや。そりゃ並の神業やない、二人だけ[12]の秘密のことも、どれだけあったか知らん。(略)そのワシが罪もないのに聖師に裁判にかけられたり、『西田は天の賊やから西田を見たら殺して呉れ』とまで追いつめられた。それを真に受けた井上や桜井達[13]は子分に手配して本気でワシを殺す計画まで立てよった。もう、いよいよ殺されると観念して大本を出たんや、仕方のないこととは言え、思へば聖師の妹や!その可愛い妻を残して行く当てもない夜逃げや!(略)やっぱり隠れ家は大阪しかなかったのや(略)お伊勢はん信仰に見せかけの『神勇会』を作って食いつなぎをしていたんや(略)そして大本色が抜けたと思っていたところへ…ヒョッコリ戸障子を叩く者が現われたんや、何とそれがワシを追い出した張本人の兄貴(聖師)だったんや!
出典:森恵昭「カミにも裏表あり」

王仁三郎はこの時、西田に二個の玉を玉を預けた。次は「カミにも裏表あり」に記された王仁三郎の発言である。

(略)やがて日本も、もう二へん立替えをやらんならん。だけどなあ、お前もワシも人間に生まれた身や、限りのある肉体や!だから万古変わらぬ世界立替えの神力に繋がる証拠の品が要るのや。お前も一つは見たことがあるやろ、まだ見せたことのない宝は、今ここへ持って来た、これや。これはワシも手放さず側へ持っていたいが、これからの大本は次から次へと魔の手が伸びて来る。役員じゃ、幹部じゃ言うて威張ったところで、金神様の代わりは出来ん、屁の突っ張りにもならん奴らばかりや。だから秘密を明かす人間はお前しかおらんのや、西田を見たら殺してくれと頼んだのは、この秘密を守るための手段や。この神界の秘密のためとは言え、お前や妹ゆきにもすまんことやけど、よう不足に思わんと朝夕神様に仕えてくれて、神様も今日の日を非常に喜んでくれているが、万事一寸の狂いもなく立替え立直しの神業の出来るのは、お前あってのワシや。見込んだりや出口王仁三郎!見込まれたりや西田元教、申すまでもなく他言はまかりならんど!(略)この○○は時節が来ればドエライ働きをする大切なものだが、天界からのお手伝いがない限り、大本の中でこれを使える人間は一人もおらんのや。例えこの王仁が再びお前を呼ぶようなことがあっても、天界のお許しのない限りは、ワシの使いと名乗る者が来ても何も知らぬで通すやうにしてくれ、肉体的には今夜がお前との最後の別れと承知してくれ(略)
出典:森恵昭「カミにも裏表あり」

西田はこの王仁三郎の命令を忠実に守り、王仁三郎危篤(昭和23年1月)の際にも、妻・雪の葬儀(昭和26年6月)の際にも腰を上げず亀岡に行かなかった。

昭和32年(1957年)2月、西田のもとに王仁三郎の神霊が現れ、時が来たと命じられ、二個の玉を大本に返すことになった。同年4月24日、大本に行き、三代教主出口直日に二個の玉を渡す。直日はそれを宇知麿に渡した。

翌33年3月3日、西田は帰幽する。

西田は王仁三郎から「天の賊」と罵られ大本を追放されたが、実はその裏で、二個の玉を保管するという秘密の神業をさせられていたことになる。

出口禮子はこの玉は王仁三郎が入蒙した際に、蒙古で入手したものではないかと推測している。次は出口禮子が平成4年(1992年)に機関誌上で発表した歌(#参考文献参照)である。(全部で23首の歌が掲載されているが一部の歌は省いた。フリガナは《》内に入れた)

奇しきかも西田元教の生涯はただ神のため忍びて仕うる

「天の賊、殺せ」と義兄《あに》(聖師)にののしられおゆきも捨てて大本去りぬ(おゆき妻聖師妹)

かくれ住む元教のもとただ一人義兄しのびきて宝あずくる(大正十三年七月十三日、大阪千林)

この宝命かけて守れよとそのため義兄は吾《あ》がを追いしか

ものすごき感激こめて語らるる声は何処ぞ聞えずなりぬ

もう一度宝の由来をとせがめども「天の言葉に二言はなし」と

宝受くその夜は聖師蒙古より帰りて大阪の拘置所のはずなる

時来ぬと義兄の告(夢)げしは三十三年目よ聖師も二代もおゆきも世に無く(昭和三十二年春)

吾《あ》がこそはかくれて血を吐くほととぎす病む身清めて大本もうでぬ(三十二年四月二十四日)

みがきあげし小函に納める宝もの森恵昭氏供してゆきぬ

宝函三代さまに納めしと語れる森氏の瞳かがやく

蒙古より持ち帰られしかかの地にて密かに会わる王清泰思ほゆ
出典:出口禮子の歌(#参考文献参照)

この出口禮子の歌によると、王仁三郎が西田に玉を預けたのは大正13年(1924年)7月13日である。しかし大正15年に西田は宣伝使試補に任命されているため、まだ大本を追放されていない。また、この時期、王仁三郎はまだ蒙古にいた。6月21日にパインタラで捕まった王仁三郎一行は、7月6日には鄭家屯から奉天の日本総領事館に送られ、7月21日に奉天から帰国の途に就く。したがって7月13日に大阪の西田に玉を預けることは不可能である。それに、「大阪の拘置所のはず」と歌にあるが、帰国した王仁三郎が大阪で収監されたのは7月27日である。いろいろと疑義がある歌だが、この歌は森恵昭が出口禮子に伝えたことが元になっているので、どちらかの記憶違いか誤記だと考えられる(あるいは王仁三郎が霊体で現れて西田に玉を預けたということか?)。

参考文献

  • 森恵昭「カミにも裏表あり」『愛善世界』平成20年(2008年)4月号、p72-82
  • 神の国』平成4年(1992年)4月号、p34掲載の出口禮子の歌
  • 上南部誌編纂委員会・編『上南部誌』昭和38年(1963年)、南部川村、p.596、NDLDL蔵書
  • 『御坊市史 第2巻(通史編 2)』昭和56年(1981年)、御坊市、p.903、NDLDL蔵書

外部リンク

脚注

  1. 昭和29年(1954年)に上南部村・高城村・清川村が合併して「南部川村」が発足。平成16年(2004年)に南部川村と南部町が合併して「みなべ町」が発足した。
  2. 『上南部誌』p.596では「森為蔵」(ただし田中神社の西田元教碑裏面の文面による)、みいづ舎版『大地の母 第五巻』「去る女たち」p.252では「森為七」。
  3. みいづ舎版『大地の母 第五巻』「去る女たち」p.252
  4. みいづ舎版『大地の母 第七巻』「呪い釘」p.4
  5. 霊界物語第38巻第17章旅装#第38巻第24章呪の釘#、『大本七十年史 上巻』「会長排斥と内部の対立#」p.214
  6. 「鍛冶商」は『百千鳥』の歌による。
  7. 大本七十年史 上巻』「著作と布教#
  8. みいづ舎版『大地の母 第八巻』「北桑田宣教#」p261
  9. 『大本七十年史 上巻』「明治の晩期#」p.319
  10. 真如の光』大正15年(1926年)5月15日号、p.34
  11. 「カミにも裏表あり」によると西田は昭和32年に玉を大本に返還する際に「聖師から預かって三十年ぶりに拝まして貰うんや」と発言しているので、追放時期は昭和2年頃だと思われる。
  12. 王仁三郎と西田の二人
  13. 井上留五郎と桜井重雄か?