穴太

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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穴太(あなお)は、京都府亀岡市の地名。出口王仁三郎の出生地。高熊山の所在地。

現在は「京都府亀岡市曽我部町穴太」だが、明治~昭和初期は「南桑田郡曽我部村字穴太」だったため(昭和30年に亀岡町に曽我部村等が合併して亀岡市が誕生)、霊界物語等には亀岡と穴太は別々の地域として書かれている。

地名の由来

穴太の地名の由来について王仁三郎は次のように語っている。

「(略)雄略天皇の二十二年[1]戊午の年、天皇の御夢により豊受大神様が伊勢の山田にお遷りになるとき、途中上田家の庭内即ち宮垣の里がその御旅所に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで鄭重に斎きかしづきしが、そのとき御神霊に御供へせし荒稲の種子が、欅(けやき)の老木の腐つた穴へ落ちこぼれ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、その稲に美(うる)はしき瑞穂を結びたれば、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎ奉つて、所在の良田に蒔きつけ、千本と云ふ名をつけて四方へ植ゑ拡めたのが穴穂の里の名の起つた始まりである。

 最初は穴穂と書いたのが後に穴生となり、穴尾となり、更に今の穴太となつたので西国二十一番の札所、菩提山穴太寺の院主は代々今に至るまで、穴穂の姓を名のつて居る[2]のであるが、その穴太の瑞泉苑より種子の頒(わか)たれると云ふことは有意義なことである。」玉鏡「瑞穂神霊」#

また言霊学上の観点から、「穴太の里は穴穂の里と書いた、アは言霊学上、天を意味し、ナは天位にある人、ホは秀、霊の意であつて、あな霊の里の意味である。」と述べている。月鏡「音頭と言霊」#

  • 「米の味は穴太産が全国一である。灘酒の原料は穴太米である。」玉鏡「米の意味」#


脚注

  1. 西暦478年
  2. 現在の住職は穴穂行弘氏