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本田親徳

176 バイト追加, 2022年2月25日 (金) 00:35
王仁三郎と本田親徳の邂逅
== 略歴 ==
この略歴は鈴木重道・著『本田親徳研究』p541-545の「本田親徳先生略年譜」をもとにして作成した(特記あるものを除く)。年齢は満年齢。545の「本田親徳先生略年譜」をもとにして作成した(特記ある場合を除く)。年齢は満年齢。
* 文政5年(1822年)1月13日、薩摩国の川辺郡加世田郷武田村(現在の鹿児島県南さつま市加世田武田)で、士族の本田主蔵(典医)の長男として生まれる。幼名は九郎。
=== 王仁三郎と本田親徳の邂逅 ===
[[王仁三郎]]は明治21年(1888年)18歳の時に、老ノ坂のは明治21年(1888年)18歳(数え年)の時に、老ノ坂の[[梨木峠]](なしのきとうげ)で本田親徳と出会った。また[[出口直]]も[[八木]]の辺りで本田親徳と出会っている。の辺りで本田親徳と出会っている<ref>[[服部静夫]]『[[大本教祖出口直子伝]]』(大正9年発行)p21にもこの出会いのエピソードが書いてある。</ref>。
{{Inyou|本田は一八八八(明治二一)年ころ、世界の高天原発見の目的で諸国を遊歴し、丹後の元伊勢、比沼真奈比にも参拝し、綾部にも足跡を残したといわれているが、この年三月中旬、喜三郎と丹波の梨木峠で対面し、神道家として国のために尽くすように、とさとしたと伝えられる。また、船井郡鳥羽村八木嶋<ref>旧・吉富村。現在の南丹市八木町の一部。</ref>の村はずれで開祖とも出会し、開祖の身上について話し、七人の女の中の随一であるといったという。|『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1434|稲荷講社と本田親徳}}」}}
此巻物は本田親徳先生より、長沢豊子の手を通じて授けられたる無二の宝典である。片時も肌を離さず、危急存亡の場合、神のお許しあるまで、決して開くなとの教を確守し、今迄大切に肌の守りにしてゐたのであるが、今や一行の精霊を救はねばならぬ場合に当り、始めて開く玉手箱、何が記してあるかと、恐る恐る押頂き伏し拝み、披き見れば……
 尊きかも、畏きかも、救世の神法、霊学の大本と数十百に亘る神業、其大要は喜楽が高熊山の霊山にて見聞したる事実と符合し、神秘に属し、他言を許されぬもののみであつた。会長は此一巻に納めたる、神法を実行する時機正に到来したりと、天にも昇るが如く勇み立ち(略)と宣る言霊に、不思議や風やみ雨やみ波従つて静まりぬ。|霊界物語{{rm|38|15|怒濤}} }}
=== 著作が『神霊界』に掲載される ===

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