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数運

202 バイト追加, 2023年1月17日 (火) 04:38
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'''数運'''(すううん)とは、[[出口王仁三郎]]と社会の事象との間に示された数字の一致による神秘現象。
[[第二次大本事件]]で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日、中国の[[瀋陽道院]]で次のような[[壇訓]]が下った。「数運は天運と相(あい)合(がっ)す。[[尋仁]](じんじん)は化世(かせい)の大責(たいせき)を負う者、必ず数運と天運の輪転に循(したが)い、以て世間諸劫(しょごう)の障(さわり)を受(う)く也」<ref>[[出口和明]]『[[出口なお王仁三郎の予言・確言]]』p240</ref>。おそらく「数運」という言葉はこの壇訓に基づくもので、これ以前に王仁三郎が「数運」という言葉を用いている例は見当たらない。。おそらく「数運」という言葉はこの壇訓に基づくものだと思われる。これ以前に王仁三郎が「数運」という言葉を用いている例は見当たらない。
== 実例 ==
* [[第二次大本事件]]で投獄されていた王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日に保釈出所し亀岡の自宅に帰宅した。すると王仁三郎は、自分が出た日から日本は負け始めだと告げた。ちょうどその日ガダルカナル島に米軍が上陸し、戦局が悪化する転換点となった。
聖書に1260という数字に関する預言がある。「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」〔新共同訳 ヨハネ黙示録 第11章第1~3節〕。王仁三郎の== 126 ==[[入蒙第36巻第15章]]と前後して1260日あるいは126日という数字が現れている。<ref>『の余白歌に「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」という歌がある。聖書に1260という数字に関する預言があり、それを前提とした歌である。 「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」〔新共同訳 ヨハネ黙示録 第11章第1~3節〕。 王仁三郎の[[出口なお王仁三郎の予言・確言入蒙]]』p241-245</ref>と前後して1260日あるいは126日という数字が現れている。
* 大正10年(1921年)2月12日、[[第一次大本事件]]で王仁三郎は投獄されてから、同年6月17日に[[責付出獄]]するまで、獄中にいた日数は126日。
* 王仁三郎が6月21日に[[パインタラ]]で捕まり、11月1日に大阪刑務所北区支所未決監から保釈されて出獄する前日まで、獄中にいた日数は126日<ref>7月21日に奉天から護送され27日に収監されるまでの船中・車中の7日間は獄中ではないので除外する。</ref>。
* 第一次大本事件で最初に投獄された大正10年(1921年)2月12日から、再び収監<ref>7月27日に大阪刑務所北区支所未決監に収監された。</ref>される前日の大正13年(1924年)7月26日までが、1260日。
 
〔『[[出口なお王仁三郎の予言・確言]]』p241-245による〕
== 愛善苑に現れた数運 ==

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