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四谷

230 バイト追加, 2023年10月19日 (木) 07:42
霞ヶ丘町
== 霞ヶ丘町 ==
[[ファイル:四谷霞ヶ丘町地図(昭和7年).jpg|thumb|四谷霞ヶ丘町16番地(赤矢印)近辺の昭和7年(1932年)頃の地図。]] 昭和5年(1930年)9月、[[人類愛善会]]東洋本部と東洋本部<ref>人類愛善会東洋本部は翌6年に愛住町に移転。</ref>と[[人類愛善新聞社]]が亀岡から四谷区霞ヶ丘町16番地(日本青年館の西隣)<ref>『[[人類愛善新聞]]』昭和5年(1930年)10月3日号p1:社告「今般本紙を東京に移転、本社の所在地も決定致しました。(略)一、本紙新発行所─東京市四谷区霞ケ丘町十六番地(明治神宮外苑日本青年館西隣) 一、九月廿一日より新発行所に於て一切の業務を開始しました。」</ref>に移転し、[[人類愛善新聞]]は10月からそこで発行されるようになった。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5122|満州巡教と世界紅卍字会}}」:「一九三〇(昭和五)年の四月一〇日には、人類愛善会総裁補に[[出口日出麿]]が就任し、さらにこの年の九月には、東洋本部および[[人類愛善新聞社]]を東京の四谷区霞ヶ丘町に移転し、「人類愛善新聞」は一〇月から東京で発行することになり、ここにいよいよ東京進出をむかえることになったのである」</ref> <ref>[[人類愛善会]]総本部は亀岡。</ref> <ref>「[[大本年表]]」によると昭和5年(1930年)9月4日(旧7月12日)聖師誕生祭の時に移転が決定されたようである。</ref>
[[人類愛善新聞]]では、これを人類愛善運動の「東京進出」「中央進出」だと報じている<ref>『人類愛善新聞』昭和5年(1930年)9月23日号p1</ref>。また王仁三郎はこの年(月日不明)「神業を東にうつす大本は天地の神のふかき経綸」と歌を詠んでいる<ref>『[[大本関東教区七十年史]]』p116</ref>。

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