出口直

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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晩年の出口直。
明治23年(1890年)頃。
大正5年(1916年)頃。

出口直(でぐちなお)(1837 - 1918年)は、大本開祖。明治25年(1892年)に「艮の金神」が神懸り神示を伝えるようになった。

(本項では「直」では読みにくい場合があるため「ナオ」と表記する場合もある)

目次

基本情報

  • 生年月日:天保7年12月16日(新暦1837年1月22日)生まれ。[1]
  • 没年月日:大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日)昇天。満81歳、数え83歳[2])。
  • 出生地:福知山藩の城下町である上紺屋町。現在の京都府福知山市上紺屋町(かみこやまち)。
    • 出口直の生家(桐村家)跡は大本の施設として整備され「厳の郷(いづのさと)」と呼ばれている。
  • 家族: →詳細は「#家族
    • 父:桐村五郎三郎(きりむら ごろさぶろう)職業は大工。弘化3年(1846年)9月15日帰幽、享年42歳[3]。桐村家は初代・五郎三郎以来代々襲名しており、直の父は四代目[4]
    • 母:そよ。慶応元年(1865年)8月24日帰幽[3]
    • 祖父:五郎三郎。天保8年(1837年)3月28日帰幽[3]
    • 祖母:たけ(祖父の三番目の妻。直が生まれた当時の祖母)。慶応元年(1865年)9月1日帰幽[3]
    • 兄弟姉妹:直は4人兄弟の3番目であり長女である。長兄・大吉。次兄・清兵衛。妹・りよ。[4]
    • 長兄:大吉。天保9年(1838年)12月28日[5]帰幽、享年8歳[3]
    • 次兄:清兵衛。明治37年(1904年)6月5日帰幽、享年72歳[3]。長男の大吉が夭折したため、清兵衛が桐村家を継いだ(襲名はしていない)。
    • 妹:りよ。文久元年(1861年)9月24日帰幽、享年22歳[3]
    • 夫:出口政五郎(でぐち まさごろう)。大工。幼名は四方豊助(しかた とよすけ)。出口ゆりの婿養子となり直と結婚し「政五郎」を襲名。明治20年(1887年)3月1日帰幽。享年60歳。
    • 子供:三男五女の八人。 →詳細は「#家族
  • 出口直の戸籍上の名前は「出口なか」である。戸籍制度は明治4年(1871年)4月に始まったが、戸籍簿に登録するときに「なお」を「なか」と誤記されてしまったためである[6]。そのため大本事件の新聞報道や裁判資料では「出口ナカ」と記している場合がある。

概要

略年表

 →詳細は「大本#略年表」を見よ

  • 天保7年12月16日(1837年1月22日):桐村ナオ生誕。
  • 嘉永6年(1853年)(16歳):綾部に移住し、叔母・出口ユリの養女となる。(時期は諸説あり→「#最初の綾部移住の時期」)
  • 安政2年2月(1855年3月)(18歳):豊助(とよすけ)と結婚[7]。豊助は「政五郎」を襲名する。
  • 明治16年(1883年)2月3日(46歳):五女・出口澄子が生まれる。
  • 明治20年(1887年)3月(50歳):夫・政五郎が帰幽(60歳)。
  • 明治25年(1892年)1月30日(旧1月1日)(55歳):霊夢を見る。
  •  同年2月3日(旧1月5日):帰神状態となる。(大本開教)
  • 明治26年(1893年):筆先を書くようになる。
  • 明治32年(1899年)7月:上田喜三郎大本入り
  • 明治33年(1900年)旧元日(63歳):上田喜三郎出口澄子が結婚する。
  • 大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日)(81歳):昇天。

家族

出口直は夫・政五郎との間に11人の子供が生まれた。そのうち3人は夭折し8人が成人した(三男五女)。

  1. 長女/(よね)/安政3年(1856年)7月20日(新8月20日)誕生[8]/大正4年(1915年)5月7日(旧3月24日)帰幽[9](満58歳、数え60歳)
  2. 二女/(こと)/文久2年(1862年)6月8日(新7月4日)誕生[10] [11]/昭和6年(1931年)2月3日(旧12月16日)帰幽[12](満68歳、数え70歳)
  3. 長男/竹蔵(たけぞう)/元治元年(1864年)12月2日(新12月30日)誕生[13]/昭和7年(1932年)9月2日(旧8月2日)帰幽[14](満67歳、数え69歳)
  4. 三女/(ひさ)/慶応4年(1868年)6月4日(新7月23日)誕生[15] [16]
  5. 二男/清吉(せいきち)/明治5年(1872年)6月6日(新7月11日)誕生[17] [18]/明治28年(1895年)7月7日(旧閏5月15日)台湾で戦死(戸籍上の死亡日は8月18日)[19](満22歳、数え24歳)
  6. 三男/伝吉(でんきち)/明治10年(1877年)3月11日(旧1月27日)誕生[20]/昭和14年(1939年)3月7日(旧正月17日)帰幽[21](満61歳、数え63歳)
  7. 四女/(りょう)/明治13年(1880年)4月12日(旧3月3日)誕生[22]/大正11年(1922年)1月4日(旧12月7日)帰幽[23](満41歳、数え43歳)
  8. 五女/(すみ)(王仁三郎の妻。大本二代教主)/明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日)誕生[24] [25]/昭和27年(1952年)3月31日(旧3月6日)帰幽(満69歳、数え70歳)

(『大本年表』以外で確認した文献を脚注に記した)

米と琴の間に夭折した子供が3人いる。[26]

  • 「やす」/生後200日で帰幽
  • 「甚吉」/生後100日で帰幽
  • 性別氏名不詳/生後2日で帰幽

開教前

最初の綾部移住の時期

桐村ナオは叔母・出口ユリに強く頼まれて養女になり綾部に移住したが、強欲で薄情な親戚が嫌になり[27]、数ヶ月して福知山に帰ってしまった。その後出口ユリの霊が現れて責められたため再度綾部に行き結婚する。この最初の綾部移住の時期について諸説がある。

大本年表』や『大本七十年史』は、最初に綾部に移住したのは嘉永6年(1853年)とし、ユリが自殺した安政元年(1854年)より前だとしている。[28] [29]

それに対して出口和明大地の母』では、ユリが自殺した後だとしている。[30]

これについて出口和明は『いり豆の花』の中で──出口澄子の著述の中で、最初の移住はナオが18歳の時だとする記述と、16歳の時だとする記述があるが[31]、いずれにせよユリの死後のこととして記されていると指摘している。ユリの自殺は安政元年(1854年)8月29日[32]なので、移住はユリが死んだ日「以後間もなくから何ヶ月かの間」であり「直十九歳の年」[31]だ──と推測している。[33]

『大本年表』や『大本七十年史』が、ナオの移住はユリの自殺前だと解釈しているのは、澄子の記憶の中で、ユリの自殺後という記憶よりも、ナオが18歳または16歳の時だという年齢の記憶の方が信用できると考えたためではないか? 数えで18歳なら嘉永6年(1853年)、16歳なら嘉永4年(1851年)であり、ユリの自殺(1854年)より前になる。[34]

開教後

著書

出口ナオが自分の意志で書いた著述は無い。

艮の金神が懸かって半紙に平仮名と漢数字で書いた「筆先」と、それをもとに王仁三郎が漢字を当てはめて発表した「大本神諭」が、法的には出口ナオの著作物となる。

伝記・研究書

 詳細は→「伝記歴史書

外部リンク

脚注

  1. 天保7年はグレゴリオ暦だと1836年2月17日から1837年2月4日までである。大半が1836年であるため、一部の資料には出口ナオの誕生年を1836年としているものもある。【例】伊藤栄蔵『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』p20:「まず福知山から語らねばならないだろう。幕末の天保七年(一八三六)になおがその地で生誕したからである」。村上重良『出口王仁三郎』p63:「一八三六年(天保七)旧十二月十六日(略)桐村家に生まれたナオは」。
  2. 数え年だと天保7年=1836年生まれとして数えるため83歳になる。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 いり豆の花』99頁
  4. 4.0 4.1 いり豆の花』106頁
  5. グレゴリオ暦(新暦)だと1839年2月10日。
  6. 出口和明いり豆の花』81頁
  7. 四方豊助はナオより先に出口ユリの養子になっていた。
  8. いり豆の花』p164
  9. いり豆の花』p682
  10. いり豆の花』p170
  11. 琴の出生名は「おみと」。6歳の時に改名した。同p170
  12. 大本年表
  13. いり豆の花』p170
  14. 大本年表
  15. いり豆の花』p173
  16. 1868年の9月8日に「明治」に改元された。
  17. いり豆の花』p180
  18. 明治5年(1872年)旧12月3日が明治6年(1873年)新1月1日に改暦。
  19. 出口和明『入蒙秘話』p46-48
  20. いり豆の花』p198
  21. 大本七十年史 下巻』「4 沓島ごもり#」p257
  22. いり豆の花』p202
  23. 大本年表
  24. いり豆の花』p208
  25. 戸籍上は2月8日出生になっている。同p208
  26. 出口和明入蒙秘話』p37
  27. 幼ながたり2 母の生いたち#:「綾部に来てみれば、親類はあっても、薄情な者ばかりで(略)六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、清れんなお気持ちの教祖さまにとって、あまり気持ちの淋しくなる事ばかりが続いて、こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました」
  28. 『大本年表』嘉永6年(1853年)の項(月日は記載無し):「なおは綾部町の出口ゆり(なおの叔母)の養女となる。半年で実家に帰る」
  29. 大本七十年史 上巻』「出口家入り#」p42:「一八五三(嘉永六)年、なおは一七才で綾部の叔母出口ゆりの養女となった」「一七才のなおは、こういう状態の出口家に養女として入ったが、もともと気のすすまなかったなおは、ゆりをきらい、半年ばかりで福知山に帰ってしまった」
  30. 『大地の母 第三巻』「ゆりの怨霊」
  31. 31.0 31.1 18歳、16歳、19歳いずれも数え年であろう。
  32. 『いり豆の花』p126「(略)非業の最後を遂げた。『教祖伝』はこの日を安政元年八月十九日のこととしているが、出口家の菩提寺である西福院(綾部市東新宮寺町)にある過去帳によると、八月二十九日となっている。」
  33. 『いり豆の花』p128
  34. 現代的な感覚だと、死んだ後で養女になって移住したと考えるよりも、生きている時に養女になって移住したと考えた方が理解しやすいが、江戸時代なので現代とは習慣・風俗が異なる。