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熊野館
,'''熊野館'''(くまのやかた)は、亀岡の[[中矢田農園]]にあった[[王仁三郎]]の居宅のことで、王仁三郎が命名した。第二次大戦後、[[天恩郷]]が再建されるまでは、大本の活動の拠点になっていた。
[[第二次大本事件]]で投獄されていた王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日、保釈され、6年8ヶ月ぶりで亀岡に帰った。
その頃、熊野館には[[出口直日]]一家が住んでおり、王仁三郎夫妻は北隣の[[有悲閣]](後の[[出口光平]]宅)の二階に住んでいたが、昭和18年6月、直日一家が但馬の竹田町に移転した後、熊野館に王仁三郎夫妻が住むようになった。また三女の[[八重野]]・[[宇知麿]]一家も同居した。<ref name="daisanji_p46">出口和明『第三次大本事件の真相』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
王仁三郎の指示により熊野館の庭が拡張され、北側<ref>七十年史では「西側」</ref>には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池<ref>七十年史では「富山池」</ref>と命名された。この二つは[[富士と鳴戸]]になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に月山富士と金竜海が造られた。また築山には「[[みろく松]]」が植えられた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref name="B195402c6432" />
昭和20年4月16日、[[出口直美]]([[直日]]の長女)と[[家口栄二]]、[[出口操]]([[梅野]]の長女)と[[角田光平]]の二組の合同結婚式が、熊野館の神前で行われた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」</ref>
昭和21年(1946年)2月7日、大本は「[[愛善苑]]」として新発足したが、熊野館がその本部となった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7131|愛善苑の設立}}」</ref>
昭和21年8月26日、王仁三郎は脳出血により病床に就き、半身不随となる。9月8日、天恩郷の瑞祥館が完成し、12月5日、幌付きの寝台で仰臥したまま、8人の奉仕者によって台を支えられ、熊野館から瑞祥館に移動した。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c731|1 昇天}}」</ref>
その後、大本の拠点は天恩郷に移り、熊野館は[[出口伊佐男]](宇知麿)・[[八重野]]一家の住居となる。また、その長男の[[出口和明]]一家の住居となる。
平成22年(2010年)8月14日午後7時半頃、漏電と思われる出火により熊野館の母屋が焼失した。王仁三郎が寝起きしていた「みろく亭」と「お蔵」は焼け残った。
== 脚注 ==
<references/>
[[Category:大本の施設|くまのやかた]]
[[第二次大本事件]]で投獄されていた王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日、保釈され、6年8ヶ月ぶりで亀岡に帰った。
その頃、熊野館には[[出口直日]]一家が住んでおり、王仁三郎夫妻は北隣の[[有悲閣]](後の[[出口光平]]宅)の二階に住んでいたが、昭和18年6月、直日一家が但馬の竹田町に移転した後、熊野館に王仁三郎夫妻が住むようになった。また三女の[[八重野]]・[[宇知麿]]一家も同居した。<ref name="daisanji_p46">出口和明『第三次大本事件の真相』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
王仁三郎の指示により熊野館の庭が拡張され、北側<ref>七十年史では「西側」</ref>には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池<ref>七十年史では「富山池」</ref>と命名された。この二つは[[富士と鳴戸]]になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に月山富士と金竜海が造られた。また築山には「[[みろく松]]」が植えられた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref name="B195402c6432" />
昭和20年4月16日、[[出口直美]]([[直日]]の長女)と[[家口栄二]]、[[出口操]]([[梅野]]の長女)と[[角田光平]]の二組の合同結婚式が、熊野館の神前で行われた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」</ref>
昭和21年(1946年)2月7日、大本は「[[愛善苑]]」として新発足したが、熊野館がその本部となった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7131|愛善苑の設立}}」</ref>
昭和21年8月26日、王仁三郎は脳出血により病床に就き、半身不随となる。9月8日、天恩郷の瑞祥館が完成し、12月5日、幌付きの寝台で仰臥したまま、8人の奉仕者によって台を支えられ、熊野館から瑞祥館に移動した。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c731|1 昇天}}」</ref>
その後、大本の拠点は天恩郷に移り、熊野館は[[出口伊佐男]](宇知麿)・[[八重野]]一家の住居となる。また、その長男の[[出口和明]]一家の住居となる。
平成22年(2010年)8月14日午後7時半頃、漏電と思われる出火により熊野館の母屋が焼失した。王仁三郎が寝起きしていた「みろく亭」と「お蔵」は焼け残った。
== 脚注 ==
<references/>
[[Category:大本の施設|くまのやかた]]