水茎の岡

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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水茎の岡の石柱

水茎の岡(みずくきのおか)は、琵琶湖の南岸にある小高い山で、万葉集に歌われた故地である。出口王仁三郎大石凝真素美はこの山に登り、琵琶湖の水面に浮かぶ水茎文字を目撃した。「水茎の岡山」とも呼ばれ、地元では単に「岡山」と呼ばれている。古い文献では「水莖岡」と表記されている。

概要

出口王仁三郎は明治31年(1898年)大石凝真素美に伴われて琵琶湖へ行き水茎の岡に登り、湖面に水茎文字が浮かぶのを実見した。 →「大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり

大正4年(1915年)5月16日、出口王仁三郎は梅田信之(大本教教統)を伴い、大石凝(大正2年に帰幽)の高弟である朝倉尚絅(あさくら しょうけい)らと再度水茎の岡を訪れ、「ア」「オ」「エ」「イ」の水茎文字を実見した。下山後、水茎の岡を買い取ろうとして地元の人に相談するが、この山は村有の山で地元民の生計を支えているので買い取りは不可能だと言われる。帰綾後、金竜海にも水茎文字が浮かぶのが見えるようになった。[1]

水茎文字はいつでも誰でも見えるものではない。また、見なくてはいけないようなものでもない。王仁三郎は次のように教えている。

琵琶湖に出る水茎文字を水茎の岡山から見るのは彼岸の中日であって、神界から使命のある人でないと竜宮から見せられぬ。王仁と大石凝先生だけが見たのであって、側にいても見えないのである。琵琶湖に見にゆくのが大変だから後では、金竜海(綾部大本神苑内)を造って見ていたのである。一つの証拠に見るだけであって一度見たら十年か十五年は見る必要はないのである。神代文字で自由に現われるから、これの判らないものは出ていても判らないのである。
出典: 『新月の光』0614「水茎文字は神代文字」

万葉集の故地

万葉集第10巻2193番歌(作者不詳)の故地が水茎の岡だと言われている。[2]

「秋風之 日異吹者 水莫能 岡之木葉毛 色付尓家里」[3]

(秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり)

古今和歌集でも歌われている。巻二十の1072番である。

「水くきのをかのやかたにいもとあれとねてのあさけのしものふりはも」[4]

(水茎の岡の館に妹と吾と寝ての朝けの霜の降りはも)

地理

長命寺山から水茎の岡を望む。峰が3つあるように見える。
昭和16年頃の地図。中央が水茎の岡
現代の地図

水茎の岡は、滋賀県近江八幡市牧町(戦前は蒲生郡岡山村大字牧)にある。標高188メートル。麓の標高は80メートル台なので比高は約100メートル。山容は、3つの峰があるように見える(写真参照)。王仁三郎がこの山のどの辺りに登ったのかは不明。西側の峰の山腹には南北朝時代に築造された山城「水茎岡山城」がある。

現在の水茎の岡は陸地と地続きだが、昔は周囲が水で隔てられた浮島のような状態だった。戦後の干拓によって水茎の岡の南麓にあった湖水(水茎内湖)は埋め立てられ、地続きとなった。

脚注

  1. 出口王仁三郎「水茎文字の研究#」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)
  2. 『近江蒲生郡志 巻八』大正11年(1922年)、305頁、NDLDL蔵書 PID:3440135/1/179。ただしこの地ではなく、筑前だという説もあるらしい。
  3. ウィキソース
  4. 古今和歌集 巻二十 - ウィキソース