伯耆大山

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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伯耆大山(ほうきだいせん)は、鳥取県にある山。神代に素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所であり、霊界物語の最後の舞台として登場する予定だった。

霊界物語の伯耆大山

  • 初出:第39巻総説#
  • 霊界物語に伯耆大山が出て来るのはあまり多くない。ほとんどは単なる「大山」と呼ばれ、「伯耆大山」という言葉そのものが出て来るのは1ヶ所だけである。[1]
  • 伯耆大山とは「簸の川上(日の川上)」という意味である。[2]

霊界物語の最後の舞台

霊界物語で伯耆大山が舞台となることはないが、将来は舞台として登場する予定であった。

第39巻から続く大黒主調伏の物語の最後の舞台となる予定であることが、霊界物語の中で語られている。三五教宣伝使たちが言向け和そうとすると、大黒主月の国ハルナの都から海を越えてオノコロ島に渡り、伯耆大山に姿を隠した。そこへ神素盞嗚大神が数多の天使や宣伝使を率いて現れ、(八岐大蛇が憑依した)大黒主を言向け和し、天叢雲剣を獲て、高天原天照大御神に献上する…という結末になることが予告されている(下の引用文参照)。

(略)日本最初の山嶺と称へられたる伯耆大山は、白雪の頭巾を頂き高麗山を圧して聳え立ち、神素盞嗚大神が八岐大蛇の憑依せる印度の国ハルナの都に暴威を振ひて、天下を体主霊従的に混乱せしめつつありしその曲業を悔悟せしめ、地上に天国を建設せむと、数多の三五教の宣伝使を派遣し厳の言霊を以て言向和さむと為たまひし時、大黒主は風を喰つて印度の都を九十五種外道を引率し、遠く海を渡りて淤能碁呂嶋の要なるこの大山に姿を隠し、暴風雨を起し妖邪の気を放射して人畜を苦しめたるを、大神は自ら数多の天使や宣伝使を率ゐて安く来りまし、天下の災害を除き、天の叢雲の剣を獲て之を高天原に坐します天照大御神に献り、清浄無垢の大精神を大神並に天神地祇八百万神及び天下万民の前に顕はし玉ひし霊界物語に取つて尤も由緒深き神山を朝夕打ちながめ(略)
出典:第59巻序#


外道には九十五の種類があつて、其重なるものは、カビラ・マハールシといふ。このカビラ・マハールシは、即ち大黒主の事であり、三五教の真善美の言霊に追ひ捲られて自転倒島の要と湧出したる伯耆の国のマハールシ(大山)に八岐大蛇の霊と共に割拠し、六師外道と云つて外道の中にても最も勝れたる悪魔を引き率れ天下を攪乱し、遂に素盞嗚尊のために言向け和されたのである。
出典:第57巻第1章大山#

霊界物語第1巻の冒頭で、霊界物語は神素盞嗚大神が八岐大蛇を寸断し叢雲宝剣を天祖に奉る物語だと宣言されているので(次の引用文参照)、伯耆大山が邪神・邪霊との最後の決戦地であると考えられる。

この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神代の物語(略)
出典:第1巻序#

しかし実際には宣伝使たちはハルナの都まで辿り着かずに第72巻で終わっており、結末が描かれずに「未完」の状態である。霊界物語は120巻まで書く予定で著述が進められていたが[3]天祥地瑞を除き、残りの30~40巻が書かれていたら、最後の方で伯耆大山が舞台として登場していたと考えられる。

霊界物語の口述地

王仁三郎は大正12年(1923年)3月20日から4月9日まで、大山の麓にある皆生温泉浜屋旅館(鳥取県米子市)に滞在し、第57巻から第60巻の半ば(第11章)まで口述した。

次の引用文からも分かるように、旅館から大山がよく見えていた。

伯耆国皆生温泉浜屋旅館の見晴し佳き二階の広間を当がはれ、朝日の光と大山の雄姿を眺め乍ら、大正十二年如月八日より十日迄三日間にていよいよ第五十七巻を口述し了りぬ。
出典:第57巻序文#


天気清朗一点の空には雲影も無く日本最初の山嶺と称へられたる伯耆大山は、白雪の頭巾を頂き高麗山を圧して聳え立ち(略)霊界物語に取つて尤も由緒深き神山を朝夕打ちながめ、ノアの方舟なす口述台に横はりつつ、四月一日より本日正午にかけ、真善美愛の戌の巻(五十九巻)を編著し了りたり。  白砂青松の海岸を四五の信徒と共に逍遥しつつ、松露の玉を拾ひ拾ひホテルの二階に帰り、大山の霊峯と差向ひ互に黙々として睨み合ひつつ認め了りぬ。
出典:第59巻序#

現実の伯耆大山

伯耆大山は鳥取県にある火山で、標高1,729m。中国地方の最高峰で、鳥取県のシンボル的な山。

伯耆国にある大山なので伯耆大山と呼ばれるが、通常は単に「大山」と呼ばれる。

修験道の山で、山腹には天台宗の「大山寺(だいせんじ)」がある。また、大国主を祭る「大神山(おおがみやま)神社」の奥宮が山腹に、本社が山麓にある。

八岐大蛇を退治した山

記紀神話で素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所は、出雲の肥の河上の鳥髪(とりかみ)という地で、一般にその場所は「船通山(せんつうざん)」の麓であるとされる。船通山は鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境にあり、標高1,142m。古来より「鳥上山(鳥髪山)」とか「鳥上峰(鳥髪峰)」と呼ばれている。

しかし王仁三郎は、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所は、伯耆大山であると言う(下の引用文及び前述の「霊界物語の最後の舞台」の項を参照)。またそのとき神庭会議を開いた場所が神刕別院がある地であるという[4]

(略)神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され、大黒主の鬼雲別以下を平定された(略)
出典:月鏡「十和田湖の神秘」#


素盞嗚尊は印度のボンベイより其八岐大蛇、即ち大豪族の大部隊を追つかけられて、長年月を経られ、各地に於て小をろちを退治られつつ、伯耆の大山に逃げ込んで割拠して居た大豪族を遂に退治られた。即ち征討されたのぢや。又日野川と云ふのは血の川とも言つて、退治した大蛇の、あまりに大部隊であつた為め、川水が血の色に染まつたと云ふので此の名称が起きた。
出典:玉鏡「八岐大蛇」#


大黒主は月の国の都ハルナを三五教の宣伝使の為に追はれ、再び日本に逃げ来り、夜見が浜なる境港より上陸し、大山にひそんだのである。素盞嗚命はこれを追跡して安来港に上陸したまひ、所謂大蛇退治を遊ばされたのであるが、大黒主は大山に於て八岐大蛇の正体を現はしたのである。
出典:月鏡「大黒主と八岐大蛇」#

日本大地の要

王仁三郎は、大山は「日本大地の要」だと言っている。また「一番高い」とも述べている。

金輪奈落の地底から 風輪、水輪、地輪をば 貫き出でたる大高峰 伯耆の国の大山は 日本大地の要なり
出典:第57巻第1章大山#


(注・天恩郷月照山に萩を植えるに当たり)「ここでは育たないから高山に持っていって育てるようにしてくれ」とのことで「高山はどこがよいでしょうか」とお尋ねしたら「大山がよい。大山は日本大地の要であるから、その萩が栄える時は要の神(金勝要神)の時代である」との事で、大国氏は大山に持って行ってその萩を移し植えて、農場を開いて萩を取られぬように守っていた。
出典:新月の光0338「月照山の萩」


大山も東京より一万尺高い。

一番高いのは大山(鳥取県)である。大山は大地の要であって大地の金輪奈落の地底から湧き出たのである。

出典:新月の光1191「大山と素盞嗚尊」、新月の光1216「大山と月の輪合」

大山農場

昭和22年(1947年)、大山山麓に愛善苑大山農場が設けられた。→詳細は「大山農場」を見よ

脚注

  1. 第59巻序#:「日本最初の山嶺と称へられたる伯耆大山は」
  2. 第39巻総説#:(出雲の簸の川上について)「肥の川上といふ言義は日の側陽陰といふことで、朝日の直刺す夕日の日照らす、山の意義であつて、出雲とは雲の発生する高山の意義で今日の伯耆の大山を指したものである」、月鏡「十和田湖の神秘」#:「神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され」
  3. 第1巻附記 霊界物語について#:「霊界物語は総計壱百二十巻をもつて完成する予定になつてをります」、第37巻序#:「神命に依れば(略)一千七百二十八巻を要し(略)神界へ御願致して可成十輯位にし百二十巻位にて神示の大要を口述して見たいと思ひます」、第73巻序文#:「加藤明子の筆録を以て七十二巻の終りを告げたるが、その後予定の百二十巻を口述せむと思ひつつ、天恩郷の開設等にて寸暇なく、今日に及べり」
  4. 『大本七十年史 下巻』聖師巡教の旅へ#:「昭和三年の一二月一五日、聖師は二代教主とともに鳥取県の西伯郡日吉津村の神刕別院の開院式にのぞんだ。(略)このとき聖師によってこの地の由来がとかれ、「素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治したと言はれるのは大山のことであり、この別院のある地がそのとき神庭会議を開いた因縁の地である」と語っている」

関連項目

外部リンク