芦別山

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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芦別山(あしわけやま)は、北海道の夕張山地の最高峰の山(標高1,726m)。一般には「芦別岳(あしべつだけ)」と呼ばれている。坤の金神が隠退していた宮原山に対して、芦別山には艮の金神が隠退していた[1]

  • 霊界物語には、芦別山という名の山は登場しない。
  • 歌集『山と海』p253-292に芦別山に関する歌が多数ある。


国祖の神霊を綾部に遷す

王仁三郎は昭和3年(1928年)の北海道巡教の際、芦別山に隠退していた国祖の神霊を綾部・四尾山に遷した[2]

永遠に御代を守らす大神のみあらかなれや芦別の山

芦別の山を立ち出で四王の峯にうつらす常立の神

芦別の山にはいかし四王の神山にやさし元津大神

芦別の山の尾根より四王の山につづける黄金橋はも

出典:歌集『山と海』p289-290(昭和8年2月)

別院と歌碑

芦別山の麓にある山部村(現・富良野市山部)に、昭和3年(1928年)「北海別院」(現・北海本苑)が設置され、昭和7年(1932年)別院内に「神生歌碑」が建立された。

王仁三郎は昭和3年(1928年)の東北・北海道巡教に際し、9月12日から15日まで山部村の山部支部(堤喜吉邸)[3] 16日は山部の北明分所に宿泊した[4]。 9月16日、山部に別院を設置することを決める[5]

山部については次の歌もある。「北海道要(かなめ)と神の定めたる山部の国魂美(うる)はしきかな」[6]

昭和7年(1932年)5月23日、北海別院内に「神生歌碑」が建立される。歌は「芦別の山はかなしも勇ましも神代ながらの装ひにして」。

同年9月5日、三代教主夫妻臨席で歌碑の除幕式が行われた。

鳥海山と芦別山

喜界島に隠退した坤の金神は、夫神(艮の金神)を恋い慕い、はるばる鳥海山までやって来たが、厳格な夫神のことだから恐らく会ってはくれないだろう、と思案した末、ここから引きかえそうと思い、鳥海山に登って遙か芦別山を偲んだ。故に昔はトオミ(遠見)の山と呼んでいたが、後世に鳥海に転訛した。

王仁三郎は昭和6年(1931年)10月1日、山形県飽海郡西遊佐村(現・遊佐町の南西海岸部)の東北別院開院式に臨むため(10月5日は北海別院道場開きの祭典に臨む)東北地方を旅行したが、鳥海山の下を通った時に突如、坤の金神が神懸かり次の歌を詠んだ。「北海の旅路はろけし吾は今 出羽の大野の雨ききてをり」 この歌は坤の金神が夫神に会いに行った時の心情を詠んだものである。この歌は東北別院の神声歌碑(昭和7年11月21日建立)に刻まれた。

また、王仁三郎に艮の金神が神懸かり詠んだ歌が「芦別の山はかなしも勇ましも神代ながらの装ひにして」で、北海別院神生歌碑に刻まれた(前述)。

玉鏡「艮坤二神の御歌」#、『大本七十年史 下』p208、p210〕

脚注

  1. 大本・日本・世界の「三段の型」があり、艮の金神・坤の金神が隠退していた場所は、大本では「沓島」「神島」、日本では「芦別山」「宮原山」、世界では「日本列島」「サルジニア島(或いはエルサレム)」ということになる。〔玉鏡「三段の型」#参照〕
  2. 新月の光0138「芦別山から四王の峯に」:「聖師は昭和三年八月二十六日旧七月十二日の誕生日を北海道で迎えられ、芦別山に隠退したまいし国常立尊の神霊を四王山に奉迎された。四尾山、世継王山とも称する」
  3. 13日の支部月並祭を境に分所に昇格した。『東北日記 五之巻』p74、p76。
  4. 17日には青森へ向かったので山部が北海道最後の巡教地だった。
  5. 『東北日記 五之巻』p151「兎も角も北海道の中心地山部に別院設置定めぬ」、『大本年表』p118
  6. 『東北日記 五之巻』p104(9月14日)

外部リンク