21,339
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
大本愛善苑
,'''大本愛善苑'''(おおもとあいぜんえん)は、[[大本]]が昭和24年([[1949年]])10月29日から昭和27年([[1952年]])3月31日まで使っていた大本の教団名。
昭和21年([[1946年]])2月7日に大本は「[[愛善苑]]」として新発足したが、やがて会則が実情にそぐわないものとなり、昭和24年の中頃から全面的な改正案を作り出した。
同年10月28日~29日に開かれた第11回臨時審議会で改正案が可決され、29日(旧[[9月8日]])に「大本愛善苑教団規則」として実施されることになった。
その主な改正点は、
*名称を「愛善苑」から「大本愛善苑」に改める。
*奉斎主神を「おほもとすめおほかみ」と明示する。
*教団の主管者(宗政面の責任者)の名称を「会長」から「総長」に改める。<ref>昭和23年([[1948年]])12月6日に会則の一部が改正され、決議機関の「委員会」が廃止になり、代わりに「審議会」が設置された。責任者の名称も「委員長」から「会長」に変更になった。『[[大本七十年史]] 下巻』835頁</ref>
等である。
教団名が「大本愛善苑」に改称された理由はおおむね二つある。
#二代苑主・[[出口澄子]]が「大本」の名を用いることを要望した。
#[[人類愛善会]]を再び発足させることになり、「愛善苑」と「人類愛善会」の二本立ての体制になった。(似たような名称ではなく、はっきり区別させる必要があった)
この改称について、同年12月9日の支部長会議で、[[出口伊佐男]]・総長は、「愛善苑が旧大本に復したという意味ではなく、大本に根ざして新発足した愛善苑が成長して、名実ともに新しい段階に進み発展して来たことを意味する」と説明している。
昭和26年([[1951年]])4月に[[宗教法人法]]が制定されると、宗教法人「大本」への気運が盛り上がり、昭和27年([[1952年]])4月1日(旧[[3月7日]])から「[[大本]]」に名称変更することになった。
「大本」への改称は、三代・[[出口直日]]のたっての要望であったという。<ref>[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』、144頁</ref>
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、837頁~838頁・840頁~841頁
[[Category:大本の組織|おおもとあいぜんえん]]
昭和21年([[1946年]])2月7日に大本は「[[愛善苑]]」として新発足したが、やがて会則が実情にそぐわないものとなり、昭和24年の中頃から全面的な改正案を作り出した。
同年10月28日~29日に開かれた第11回臨時審議会で改正案が可決され、29日(旧[[9月8日]])に「大本愛善苑教団規則」として実施されることになった。
その主な改正点は、
*名称を「愛善苑」から「大本愛善苑」に改める。
*奉斎主神を「おほもとすめおほかみ」と明示する。
*教団の主管者(宗政面の責任者)の名称を「会長」から「総長」に改める。<ref>昭和23年([[1948年]])12月6日に会則の一部が改正され、決議機関の「委員会」が廃止になり、代わりに「審議会」が設置された。責任者の名称も「委員長」から「会長」に変更になった。『[[大本七十年史]] 下巻』835頁</ref>
等である。
教団名が「大本愛善苑」に改称された理由はおおむね二つある。
#二代苑主・[[出口澄子]]が「大本」の名を用いることを要望した。
#[[人類愛善会]]を再び発足させることになり、「愛善苑」と「人類愛善会」の二本立ての体制になった。(似たような名称ではなく、はっきり区別させる必要があった)
この改称について、同年12月9日の支部長会議で、[[出口伊佐男]]・総長は、「愛善苑が旧大本に復したという意味ではなく、大本に根ざして新発足した愛善苑が成長して、名実ともに新しい段階に進み発展して来たことを意味する」と説明している。
昭和26年([[1951年]])4月に[[宗教法人法]]が制定されると、宗教法人「大本」への気運が盛り上がり、昭和27年([[1952年]])4月1日(旧[[3月7日]])から「[[大本]]」に名称変更することになった。
「大本」への改称は、三代・[[出口直日]]のたっての要望であったという。<ref>[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』、144頁</ref>
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、837頁~838頁・840頁~841頁
[[Category:大本の組織|おおもとあいぜんえん]]