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岡田茂吉
,→略年表
* 同年12月、よし子(太田よ志)と再婚。半年後に妊娠するが、その五ヶ月後によし子は肺結核にかかってしまう。<ref name="zensyu1_p14">『岡田茂吉全集 著述編 第1巻』14~15頁</ref>
* 茂吉は奈落の底に落ち、信仰の道を模索し始めた(37歳)。それまでは徹底した無神論者で、神仏に祈る人たちをバカにしていたが、相次ぐ不幸によって一変し、救いを求めて様々な宗教の門を叩いた。
* 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は[[吉原亨]])を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。<ref name="zensyu1_p14" />
* 同年6月に、大本に入信する。綾部へ参拝して帰ると、後妻のよし子の病が全快するという奇蹟を体験する。<ref name="zensyu1_p14" />
* 茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、[[浅野和三郎]]らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。