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岡田茂吉
,→略年表
* 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。<ref name="zensyu1_p14" />
* 同年6月に、大本に入信する。綾部へ参拝して帰ると、後妻のよし子の病が全快するという奇蹟を体験する。<ref name="zensyu1_p14" />
* 茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、浅野和三郎らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、[[浅野和三郎]]らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。
* 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災勃発。震災後に疫痢が流行し、10月に生後1歳の男児(よし子との間に初めて生まれた子)が病死してしまう。震災によって岡田商店の経営も苦しく、茂吉は再び奈落の底に落ちた。かねて茂吉は、大本神諭の「東京はもとの薄野(すすきの)になるぞよ」という警告から「東京は火の海になる」と予見していたが、実際に関東大震災によってそれが実現したことで〈奇跡を実感し、神の実在に触れた〉<ref name="kamisamawo_p206">『神様を~』206頁</ref>。茂吉はその年のうちに大本信仰に戻り、それから3年間、神霊学の研究に没頭した。(この〈回心のきっかけとなった決定的理由は、関東大震災を警告する大本の「お筆先」だった〉<ref name="kamisamawo_p206" />)
* 大正15年(1926年)の暮れ、初めて神の啓示を受ける。自動書記で神示が降りて、3ヶ月の間に便箋3~400枚を書いた。〈その内容は五十万年前の原始時代から七千年前にいたる日本の創世記にはじまり、未来の人類の歴史をたどるもので、さらに茂吉自身の過去、現在、未来にわたる運命を解明していた。予言は後になって満州事変や太平洋戦争、そして戦後の世界情勢のなかに事実となって現われた。(略)残念なことに、この記録は残されていない。神示の内容には皇室の運命に言及しているところもあり、万が一官憲の目に触れることがあったはとの危惧から、ひそかにブリキ缶に収めて縁の下に隠されていた。(略)茂吉も大本に所属していたため、身辺は常に監視の目が光り、しばしば出頭を命じられた。そこで、身の危険を感じた彼は、この記録をいっさい焼却してしまった。戦後になって、彼は記憶をたどり未来世界の啓示を「二十一世紀」と題する文章にまとめている。〉<ref>『神様を~』210~212頁</ref> <ref>「二十一世紀」は『岡田茂吉全集 著述篇 第6巻』109~121頁に収録されている。昭和23年著。</ref>。