鶴殿親子
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概要
慶応2年(1866年)8月、京都で生まれる。醍醐忠順(だいご ただおさ)の二女。
明治24年(1891年)、鶴殿忠善(ただよし、1853~1895年)と結婚する。
子に家勝(いえかつ、1891~1956年)、実子(しなこ。藤田財閥の創始者である藤田伝三郎男爵の三男・彦三郎と結婚した)がいる。[2]
大正6年(1917年)4月23日(旧3月3日)綾部に来て出口王仁三郎に面会。王仁三郎の顔が熾仁親王に生き写しだったため、熾仁親王の落胤だと確信し、大本に入信したといわれている。[3]
親子は少女時代に書道を通じて熾仁親王に師事していた。
親子はこのとき熾仁親王からいただいた藤に燕の金蒔絵の黒塗りの机を、後に王仁三郎に献上した。この机は元は孝明天皇が使っていたもので、幟仁親王に下賜され、子の熾仁親王に伝えられたものである。
また、よく王仁三郎の生家を訪れて、王仁三郎の母のよねと二人で長い間楽しそうに話をしていたという。
昭和16年(1941年)1月29日、帰幽。享年75歳。[4]
【参考文献】
皇室との関係
醍醐家は公家であり、五摂家の一条家の支流である。鶴殿親子と皇室とは次のような関係がある。
- 兄の忠貞(たださだ)は、明治天皇の皇后(一条美子、昭憲皇太后)の兄・一条実良(さねよし)の養子である。(美子から見て、甥の妹なので、“鶴殿親子は昭憲皇太后の姪である”と説明される場合があるが、厳密にいえば姪ではない)
- 姉の好子は、賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう)の妃である。
- 夫の忠善(ただよし)は、有栖川宮熾仁親王の父・幟仁親王(たかひとしんのう)の正妻・広子とは、いとこの関係になる。(熾仁親王の生母は佐伯祐子なので血はつながっていない)
- 大正天皇の皇后(九條節子、貞明皇后)は、夫の姪である。(夫の兄・九條道孝の四女)
- 夫の甥の娘(九条敏子)は賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、邦憲王の長男)の妃である。
鶴殿忠善
鶴殿忠善(つるどの ただよし)は九条尚忠の五男。男爵、貴族院議員。
忠善は京都にある門跡の随心院(真言宗善通寺派の大本山)で住職をしていたが、明治5年(1872年)に還俗。
明治22年(1889年)に、九条家から分家して「靏殿」家を再興する。後に「鶴殿」と改める。
親子の親類縁者たち
関連項目
脚注
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「社会の反応#」
- ↑ 『昭和新修華族家系大成 下巻』114頁、霞会館、1984年
- ↑ 『神霊界』大正6年(1917年)6月号「大本通信」44頁下段に鶴殿親子が来綾した記事がある。〈四月二十三日旧三月三日は大本に取りて大に記念すべき日であつた。(略)神人両界に跨る所の一大事、後になつたら天下の一大紀念日であらうが、今日では詳報が出来ぬ。ただ西と東に立別れた仕組の人の現界に於ける結合であるといふ事を書くにとどめる。(略)翌二十四日には教主を先導として一行十一人吉野の奥に向つて出発した。越えて3月二十七日には無事目的を果して帰綾した〉。この吉野の山奥へ行った記事は同号の37~40頁に「山吹の花#」と題して掲載されている。
- ↑ 出口和明「明らかになった『たまほこのひ可里』の編纂」28頁上段、『神の国』平成10年(1998年)9月号収録