フレデリック・スタール
フレデリック・スタール(Frederick Starr、1858~1933年)は、アメリカの人類学者。日本では「お札(ふだ)博士」として知られている。来日した際に大本を訪れた。霊界物語では「スバール」とも呼ばれている。

概要
スタールは1891年から31年間、シカゴ大学の教員を務めた[1]。
スタールは明治37年(1904年)に初来日して以来、生涯で15回[2]日本に来ている。自分の名をもじった「壽多有」と印刷された千社札を日本各地の神社仏閣に貼りまくったため、「お札博士」と呼ばれるようになった。
昭和10年(1935年)に来日した際には2月4日から7日午前まで綾部の大本を訪問。その後、2月20日から3月27日まで、四国八十八箇所霊場巡りを行っている[3]。
大本訪問
大正10年(1921年)2月4日、スタールは参綾して、王仁三郎と面会した[4]。
大正10年2月13日付(12日夕発行)『大正日日新聞』報道[6]によると、スタールは6日夜まで綾部に滞在し、7日午前の汽車で帰った。4日午後は王仁三郎と面会した後、五六七殿にて鎮魂を受けた。6日は本宮山神殿や教祖奥津城を参拝し、午後は二代教主と面会。教主から教祖真筆のお守りを贈られた。
木庭次守によると、スタールは計3回、大本を訪問したようである。『霊界物語とは何か』68頁[7]:〈日本タニハ文化研究所の木庭代表は「米国人のスタール氏は日本中の神社を回ってお札を集めた為にお札博士といわれました。スタール氏は大本へ三回も来て調査し、米国へ報告しました。米国から日本へ抗議してきましたので、原敬内閣は言訳のために弾圧しました。内務大臣床次竹二郎氏の弟が大本の熱心な信者でした。王仁三郎師が『お兄さんはお宮を壊したから総理大臣にはなれない』と語られたので、竹二郎夫妻は綾部へ行き、王仁三郎師にお詫びをしたことがあります。『写真で見て小さいお宮と思って』と弁解されました」といっている。〉
王仁三郎が昭和7年(1932年)3月19日に行った講演(次の引用文)によると、スタールは米国政府から大本偵察の任務を帯びて、大本を訪問したようである。
上の引用文で「○」は底本で伏せ字になっているが、「○○戦争」とは「日米戦争」だと思われる。前掲の木庭の発言と合わせて考えると──大本が日米戦争が起きるという予言をしていたため、米国政府が反応し、日本政府が大本を使って米国との戦争を唱導しているのではないかと勘繰り、スタールに大本を探るよう命じた。その報告を受けた米国政府は日本政府に抗議し、原敬はその誤解を解くために大本を弾圧した──ということだと解することが出来る。
霊界物語
霊界物語に、スタールをモデルにした思われる人物が登場する。次の4つの章に登場する。最初の3つの章(いずれも第64巻上)では「スバール」、残り1つの章(第64巻下)では「スタール」と呼ばれている。
スバール博士はシカゴ大学の教授であり、シオン大学の創立者である[8]。シオン大学建設の委員に選ばれ、監督のため、二ヶ月ほど前からエルサレムに来ていた[9]。
スバール博士は橄欖山で、守宮別に話しかけられる。その内容は、日出島から救世主・日の出神(虎嶋寅子のこと)をエルサレムまで送ってきたということだが、スバールは、それは偽救世主だと言って[10]笑い、守宮別と別れた。〔第64巻上第23章「暗着」#〕
スバール博士はシオン山の谷間にあるブラバーサの家を訪ねて、守宮別はどういう人間なのか尋ねた。〔第64巻上第27章「再転」#〕
外部リンク
- フレデリック・スタール - ウィキペディア
脚注
- ↑ 英語版Wikipediaの「Frederick Starr」
- ↑ 16回という説もある。
- ↑ ディビット・モートン「フレデリック・スタール(お札博士)と四国遍路」38頁、『現代の巡礼―四国遍路と世界の巡礼― 公開シンポジウムプロシーディングス』収録
- ↑ 大本年表
- ↑ 『出口王仁三郎著作集 第五巻』332頁に収録。
- ↑ 綾部で鎮魂を受けたスタールお札博士(『大正日日新聞』大正10年2月13日付)#
- ↑ NDLDL蔵書 PID:13285656/1/37
- ↑ 第64巻上第23章「暗着」#:〈シオン大学の創立者たるスバール博士が〉
- ↑ 第64巻上第27章「再転」#
- ↑ 第64巻上第25章「地図面」#:守宮別のセリフ〈又スバール博士もお前さまを偽救世主と云つてゐたから〉