岡田惟平
略歴
この略歴は次の文献をもとに作成した。
- 岡田完司[1]・著『国学者 岡田惟平 ──“あるがままに生きた”伝説の歌人』(2008年)
- 『本教創世記』「第一章#」(『出口王仁三郎著作集 第一巻』所収)
- 『大本七十年史 上巻』「牧夫の生活#」
- 『大地の母 第一巻』「園部殖牛社#」
文政5年(1822)12月6日、摂津国川辺郡西谷村の内大原野村(現・兵庫県宝塚市大原野西谷[2])の農家に生まれる。
通称・歌之助。父は和平、母は晶(しょう)。
摂津は著名な国学者が輩出しており、農民の子であるが、惟平は働きながら勉学に励んだ。
27歳の時、丹波の園部へ行き、園部藩の儒者・坂本三七の元で漢文や儒学を学ぶ。なぜ園部まで出向いたのかは不明。
数年間勉強した後、故郷に帰る。そして農業をしながら、近くの儒者・武藤豊樹や、勤皇家の歌人・錦小路頼徳に師事して、国学や和歌の道を学ぶ。また本居学統の国学者・八木立禮について万葉歌風を究める。30代で国学、儒学、書道など究めたが、中でも和歌が最も得意であった。後進の指導にも取り組み、遠近から教えを請いに訪ね来る者が多かった。
30歳を過ぎた頃、ウノという名の女性と結婚。三男一女をもうける。長男は安政2年(1855)に早世。
万延元年(1860)38歳の時、突発性の耳の疾病にかかり、聾者となる。以後の会話は筆談となる。
翌年(1861)、父・和平が死去。
学問に身を投じる惟平家の生活は苦しく、次男の楚玉は9歳で丹波・法京村の普門寺(現・南丹市園部町法京蔵垣内)へ預ける[3]。また三男の徳栄は摂津・此花郡の黄檗宗の寺へ預ける。
文久2年(1862)「詩玉度 ことばたまど」という自筆の動詞活用表を作成。惟平が創作し、門弟に正しい「仮名づかい」と「文法」を指導するために使ったと思われる。
惟平は筆談だったが、「ありませぬ」「存じませぬ」という丁寧な言葉づかいで、仮名づかいを特にやかましく言ったという。歌人の佐佐木信綱(1872~1963年)は惟平の遺稿を見て「まれに見る仮名つかいの大家である。数多の原稿の中で一字の写し違いもみなかった」と語っている[4]。
慶応2年(1866)次男・楚玉が園部の南陽寺に転住。
明治2年(1869)妻のウノが死去(享年50歳)。
明治8年(1875)次男・楚玉が南陽寺の住職となる。
明治19年(1886)母の晶(しょう)が死去(享年84歳)。
明治21年(1888)宮内省に御歌所が設立され、惟平は寄人(よりうど。職員のこと)に推薦されたが、健康上の理由(高齢、耳疾)で辞退した。
70歳頃(明治26年頃)から南陽寺に滞在することが多くなり、寺の衆寮(僧侶が居住する建物)で地域の人15~6人に国学の指導をする。その中に上田喜三郎(後の出口王仁三郎)がいた。
上田喜三郎は明治26年(1893)7月、故郷の亀岡を離れ、園部で獣医をしている従兄(井上直吉)の元に書生として住みこんだ。そこは井上牧場という所で、南陽寺の隣にある。喜三郎は働きながら、南陽寺で惟平に師事して国学や和歌を学んだ。
また喜三郎は、住職・楚玉の長男・岡田和厚(当時10歳)と無二の親友となった。[5]
惟平が喜三郎に教えていたのはわずか1年2ヶ月ほどであったが、「あれはなかなかの傑物だ。しかし一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」と、喜三郎に非常な期待を寄せていた。
明治27年(1894)惟平は摂津に帰る。
明治29年(1896)南陽寺が火災に遭い、惟平の作品、持ち物はこの時に焼けてしまったと思われる。
明治40年(1907)2月、86歳の惟平は、孫の文孝(楚玉の子?)が住職をしていた園部・観景寺に転居する。
明治42年(1909)9月15日、惟平は観景寺で死去。享年89歳。墓は摂津・大原野の共同墓地にある。
明治45年(1912)門弟たちによって大原野に惟平の顕彰碑が建てられる。阿弥陀寺の門前にある。
惟平の亡き後も王仁三郎はたびたび南陽寺を訪れて、師を偲んで「敬老尊師」と染筆した。この書は今も南陽寺に残されている。
歌碑
昭和8年(1934)12月3日、王仁三郎は南陽寺に惟平を顕彰する歌碑を建立。「二夜ともなき望月の影きよみ もりてふかさん軒のさむしろ」という惟平の和歌が刻まれた。しかしこの歌碑は2年後に起きた第二次大本事件で当局によって破壊されてしまい、そのあおりで惟平の遺品まで焼却されてしまった。
昭和40年(1965)12月3日、有志によってほぼ同じ歌碑が再建された。
歌祭り
王仁三郎は昭和10年(1935年)10月31日、亀岡の明光殿にて「第一回歌祭り」を開き、廃れていた歌祭りを再興したが、そのやり方は岡田惟平に教わった。
関連項目
外部リンク
- 南陽寺(公式サイト)
- 南陽寺境内の長寿椿と記念碑(歌碑等):南陽寺サイト内。歌碑について。
- 岡田惟平 - コトバンク