出口王仁三郎の肉声レコード
出口王仁三郎の肉声レコード(でぐちおにさぶろうの にくせいれこーど)とは、王仁三郎が蓄音器で自分の声を吹き込んだレコードのこと。祝詞や宣伝歌・音頭・演説などがあり、大正11年(1922年)と昭和6年(1931年)に録音された。
目次
概要
- 大正11年(1922年)3月7日(旧2月9日)、王仁三郎は松雲閣で、霊界物語第12巻総説歌#及び祝詞等を、蓄音器に吹き込んだ。東京から蓄音器の輸入業者[1])・三光堂(さんこうどう)の技師が来て録音した。翌8日も吹き込みを行った。同月31日、製作されたレコードが到着して、五六七殿にて一同拝聴する。[2]
- 第12巻第8章「思出の歌」#(録音した当日に口述)にそのことが次のように詠まれている。「(前略)清く流るる小雲川/常磐の松生ふ川の辺に/聳り立ちたる松雲閣/いよいよ十二の物語/聖き神代の消息を/音無瀬川の川の瀬に/流すが如くすくすくと/滑り出でたる蓄音器/瑞の御魂の開け口/梅を尋ねて鳥が啼く/東の遠き都より/瑞霊輝く三光堂(後略)」。瑞の御魂に因む「三」の光ということで神縁を感じたのではないかと思われる。本巻には「三光の宣伝使」が登場するが、それも「三光堂」に因んだ可能性がある。
- 吹き込まれた第12巻総説歌は、前日の3月6日(旧2月8日)に王仁三郎自身によって書き記されたものである。また同じく6日から第1章以降の口述が始まっている。
- 第12巻の巻頭口絵には、「蓄音器吹込中の口述者出口聖師」の写真が掲載された。戦後の校定版や愛善世界社版でも同じ写真が第12巻巻頭に掲載されている。
- 録音当日の3月7日(旧2月9日)は新暦だと出口直日の満20歳の誕生日であり、旧暦だと高熊山修業から満24年目の記念日であった。[3]
- 王仁三郎が祝詞を吹き込んだ意図について大国美都雄は、信者が祝詞の上げ方(リズム等)がよく分からないため、聖師に模範的なものを出していただこうということでレコードに吹き込むことになった、と述べている。[4]
- 昭和6年(1931年)6月3日、王仁三郎は亀岡の明光社にて、音頭の吹き込みを行った。[2]
- 同6月16日、王仁三郎は大阪の日本コロムビア会社にて、花明山節の吹き込みを行った。[2]
- 発行された王仁三郎のレコード群は大正11年のものと、昭和6年のものに二大別される。前者は「スタークトンレコード」(三光堂のレーベル。象印)、後者は「コロムビア」から発行されている。また昭和6年の出口宇知麿や森松枝のレコードは「ニットーレコード」(大正9年に大阪市住吉区で創業された日東蓄音器のレーベル。燕印)から発行されている。
- 録音方式としては、前者は「機械吹込」(音を直接原盤に刻む)、後者は「電気吹込」(音をアンプで電気的に増幅して原盤に刻む)で録音された。(SPレコード#録音方式の変遷 - ウィキペディア )
タイトル
王仁三郎の肉声レコードは次の10タイトル発行されたようである。ただし必ずしも1タイトル1枚ではなく、1タイトルが複数枚になっているものもあるため、総枚数としては十数枚になる。
【大正11年/機械吹込】
- 天津祝詞:
- 神言:レコードに録音された天津祝詞と神言は現行バージョン(霊界物語第60巻第14章「神言」#に記されたもの)ではない。昭和10年12月8日の弾圧まで使われていたもので、「皇御祖(すめみおや)」「皇親神(すめらがむつ)」「我皇孫命(あがすめみまのみこと)」といった文言が含まれている戦前バージョンである(第30巻天津祝詞解#や第39巻附録 大祓祝詞解#で解説されているもの)。王仁三郎は昭和17年8月に保釈出所すると霊界物語第60巻に記された天津祝詞と神言を奏上するように命じた。
- 天の数歌:
- 真の信仰(まことのしんこう):演説。『王仁文庫 第九篇』「第六章#」の「一」から「一〇」までを多少アレンジして話している(初出は『神霊界』大正9年8月21日号)。ただし「一〇」の後半が収録時間が足りずに「~奇《くしび》なる」で途切れており「智慧と力を~」以降が録音されていない。
- 基本宣伝歌:
- 総説歌:霊界物語第9巻総説歌#の冒頭部分。
- 思出の歌(おもいでのうた):霊界物語第12巻第8章「思出の歌」#のほぼ全文。冒頭で王仁三郎が小声で「さあ外山(とやま)さん、自動蓄音器が始まるから、鉛筆持って速記の用意だよ」と棒読みでしゃべっている[5]。この章を筆録した外山豊二に口述(自動蓄音器)開始を伝える呼びかけを洒落で吹き込んだのだと思われる。ただし王仁魂版からは削除されている。
(これら7タイトルはいずれも大正11年3月7日に録音された[6])
【昭和6年/電気吹込】
- 基本宣伝歌:この3タイトル(基本宣伝歌、宣伝使歌、一の谷嫩軍記)はいずれも音頭(みろく踊り花明山節)である。
- 宣伝使歌:霊界物語第39巻第5章「人の心」#で照国別が歌っている宣伝歌の一部抜粋。
- 一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき):霊界物語等とは関係がない。「浄瑠璃で語られていた源平の一の谷合戦で、熊谷直実が平敦盛を討つ場面を、王仁三郎が音頭風に崩したもの」[7]
(これら3タイトルはいずれも昭和6年6月16日に録音された[6])
復刻
王仁三郎の昇天後に、レコードを復刻してカセットテープやCDにしたものが何種類か発行されている。主なものとして4種を列挙する。
なお、いずれも基本的には王仁三郎の肉声10タイトルが収録されているが、愛善世界社版だけは「天の数歌」が未収録で、なおかつ「神言」が半分だけ未収録になっている。また、みいづ舎版には出口宇知麿の肉声が3タイトル、王仁魂版には二代教主・出口澄子の肉声が1タイトル収録されている。
(以下の各タイトルの時間測定は前後の空白を含む時間だったり含まない時間だったり色々なので数秒の誤差がある)
みいづ舎版
『出口王仁三郎の言霊録』
- 発行元:みいづ舎
- 販売ページ
- 平成2年(1990年)7月にカセットテープ版を発行。平成20年(2008年)7月にCD版を発行。
- 出口王仁三郎の肉声を10タイトル、出口宇知麿の肉声を3タイトル収録している。宇知麿の声は他社版には収録されていない。
- 天津祝詞[2分42秒]
- 神言[12分17秒]
- 天の数歌[0分30秒]
- 真の信仰[3分34秒]
- 基本宣伝歌[1分31秒]
- 総説歌[1分13秒]
- 思出の歌[10分20秒]
- 基本宣伝歌[2分59秒]
- 宣伝使歌[2分40秒]
- 一の谷嫩軍記[10分23秒]
出口宇知麿の宣伝歌:最初の2本は昭和6年6月17日に録音されたもの[8]。「最後の光明」は昭和46年(1971年)68歳の時に録音された。
- 綾の聖地行[2分52秒]:霊界物語第16巻第6章「石槍の雨」#冒頭の歌の抜粋。三味線は森松枝(森松代)。
- 霊界の旅(苦楽の道)[2分52秒]:霊界物語第40巻第13章「試の果実」#冒頭の歌の抜粋。
- 最後の光明[6分23秒]:霊界物語第10巻総説歌#からの抜粋。
愛善世界社版
『出口王仁三郎聖師御声 祝詞・思出の歌・音頭みろく踊り他』
- 発行元:愛善世界社
- 販売ページ
- 平成8年(1996年)頃にカセットテープ版を発行。令和3年(2021年)8月にCD版を発行。
- レコードのピッチ(回転速度)を研究し妥当なピッチを導き出した[9]。それによって他社版より回転数が少し遅くなり、結果的に王仁三郎の声の高さが少し低くなっている。 →「#声が高すぎる問題」
- CD版では「周波数補正機能を持つ編集・録音用アンプを特別に製作し、その結果、カセットテープ版に比べて歯切れが良く、自然に近い音色を再現することに成功」[10]した。
- 「天の数歌」はレコードを調達できなかったため収録されていない。また、「神言」のレコードは2枚組になっているがそのうち1枚は調達できなかったため1枚分しか収録されていない。しかもレコードの最初の部分が欠けていたため途中からの収録となり、「豊葦原の水穂の国を」から「伊頭の千別に千別きて」までの収録となっている。[9]
- 下のリストはCD版の収録順番であり、カセットテープ版では神言が一番最後に収録されている。
- 天津祝詞[3分07秒]
- 思い出の歌[11分26秒]
- 真の信仰[4分00秒]
- 基本宣伝歌[1分52秒]
- 総説歌[1分22秒]
- 神言(一部)[5分51秒]:
- 一の谷嫩軍記[11分44秒]
- 基本宣伝歌[3分22秒]
- 大本宣伝使歌[3分03秒]
王仁魂復活プロジェクト版
『出口王仁三郎実声言霊集 王仁魂復活』
- 発行元:王仁魂復活プロジェクト
- 平成21年(2009年)5月、CD版を発行。
- 環境音楽家の小久保隆によってリマスターされた。レコードのノイズを(ソフトウェア的に除去すると音声がおかしくなるので)手作業で除去することでノイズの無いクリアな音声になるようにした。[11]
- 最後に出口澄子の演説が収録されている。
- 天津祝詞は最後の「大本皇大御神 守りたまへ幸はへたまへ」が収録されていない。
- 真の信仰[3分42秒]
- 天の数歌[0分45秒]
- 天津祝詞[2分39秒]
- 神言[12分40秒]
- 基本宣伝歌[1分39秒]
- 総説歌[1分19秒]
- 思出の歌[10分06秒]
- 基本宣伝歌[3分03秒]
- 宣伝使歌[2分45秒]
- 一の谷嫩軍記[10分31秒]
- 二代様のはなし[3分27秒]:昭和26年(1951年)10月6日、綾部・松香館の大広間での二代教主・出口澄子が、みろく殿を建てる意義について演説した音声。
八幡書店版
『出口王仁三郎言霊大祓祝詞CDブック』
- 発行元:八幡書店
- 監修:武田崇元
- 販売ページ
- 平成29年(2017年)6月、CDブック版を発行。 →書籍としての情報は「出口王仁三郎 言霊大祓祝詞 CDブック」
- 東京芸術大学大学院映像研究科教授・長嶌寛幸(ながしま ひろゆき)によるノイズリダクション・デジタル・リマスター版。最新の音声デジタル技術によってノイズを低減した。(長嶌寛幸 - ウィキペディア )
- 天津祝詞[2分42秒]
- 神言[12分02秒]
- 天の数歌[0分36秒]
- 真の信仰[3分33秒]
- 基本宣伝歌[1分35秒]
- 総説歌[1分18秒]
- 思出の歌[10分20秒]
- 基本宣伝歌[3分03秒]
- 宣伝使歌[2分45秒]
- 一の谷嫩軍記[10分22秒]
その他の版
『王仁三郎 言霊リミックス』
- 発行元:八幡書店
- 販売ページ
- 平成8年(1996年)頃、CD版発行。
- 王仁三郎の肉声「天津祝詞」と「神言」を使い、音楽とリズムをミックスしたもの。
『言霊の遺響 温故知新ヴィンテージ・ヴォイス』
- 発行元:Vintage-mood.com
- 販売ページ
- 平成29年(2017年)、CD版を発行。
- 王仁三郎の肉声として「一ノ谷嫩軍記」「基本宣伝歌」「宣伝使歌」の3タイトルを、宇知麿の霊界物語自由節「綾の聖地行」「霊界の旅」の2タイトルを、森松枝(森松代)の霊界物語自由節「此物語」「言霊の幸」の2タイトルを収録している。
森松枝の歌
声が高すぎる問題
王仁三郎の声のトーン(音の高低)は男性としては甲高い方である。しかし近親者や高齢信徒など王仁三郎本人の肉声を直に聞いたことがある人は、他社版の復刻テープを聞いて「さすがに高すぎる」という意見が多く上がっていた。愛善世界社版では他社版よりトーンが少し低くなっているが、それは次の理由による〔同社カセットテープ版の説明文による〕。
愛善世界社版の製作者は、当時のレコード(SP盤)のピッチが毎分78回転(rpm)に標準化されたのは戦後のことであり、戦前は「特別な規格がなく、その場その場で吹込みを行う人どうしが決めていたようです」と言う[12]。しかし他社版の製作者はピッチを78回転だと思い込んで復刻しているようで、そのため声が甲高く、また声の力強さなども失われてしまっているようである。
また、盤ごとにピッチが異なるだけでなく、同じ面でも突然ピッチが変わり、変化の大きい部分はたった8回転になる。
ピッチをどうするか難しい問題だが、しかし王仁三郎は「随所に技術屋にとって目安となる音をご自身で入れられていた」。製作開始から2年後にそのことに気が付き、ようやく正確なピッチが判明した。
多くの先輩方に聞いてもらい、また四代教主・出口直美(王仁三郎の孫。昭和4年生まれ)にも聞いてもらい、完成させた。
ピッチについてはっきりとは書いていないが、結果的に他社版(78回転で復刻していると思われる)より遅くなったので、王仁三郎の声のトーンが少し低くなった。
解析してみると、ピッチは約10%遅くなっており、トーンは半音と全音の中間くらい(全音を1音とすると0.8音くらい)低くなっている。→「トーク:出口王仁三郎の肉声レコード」
資料
「大本年表」にレコード関係の出来事として次のように記されている。
- 大正11年(1922年)
- 3月7日(旧2月9日)「聖師、高熊山入山満二十年[3]。松雲閣において聖師、霊界物語第十二巻の総説歌および祝詞等を蓄音器に吹き込まる(東京の三光堂の技師来る)」
- 3月8日「聖師、蓄音器に吹き込みあり」
- 3月31日「聖師お吹き込みのレコード到着、一同五六七殿にて拝聴」
- 昭和2年(1927年)
- 3月24日「東京の日笠氏、聖師吹込みレコード原盤をおさめる」
- 昭和6年(1931年)
- 昭和7年(1932年)
- 12月9日「三千麿、村田七光音楽部主任ら、昭和青年行進曲レコード吹き込みのため名古屋へ」
『大本七十年史』に次のように記されている。
一九三二(昭和七)年一一月一〇日、昭和青年会は音楽部をもうけた。音楽部の中に、シンフォニー・オーケストラ部(神楽)、コンサート・オーケストラ部(聖地における諸会合のため)、ブラスバンド部、(ハーモニカ・バンド部(昭和青年会の諸行事)、声楽部、作曲・編曲部をおき、「昭和青年会歌」「昭和坤生会歌」から、「昭和青年行進曲」「青年の歌」「青年神軍歌」「青年愛国歌」などを、レコードにも吹き込み、諸行事には必ず演奏された。そのほか「昭和の女性」「月の宮(ワルツ、タンゴ)」「気をつけろ」などがあり、いずれも聖師の作歌で音楽部の作曲演奏になったものである。
聖師によるレコードは『霊界物語』の吹き込みがもっとも古く(上巻四編一章)、ついで「天津祝詞」「神言」「講演」があるが、みろく踊の音頭として「花明山節」「一ノ谷嫩軍記」「基本宣伝歌」「大本宣伝歌」などがある。明光社では、聖師作歌・美木行雄朗吟の「草枕」「神苑」があり、そのほか『霊界物語』の自由節では、宇知麿の「綾の聖地行」「霊界の旅」、森松代の「言霊の花」「此の物語」等があって、レコードによる宣伝の効果も大きかった。
脚注
- ↑ ウェブサイト「日本蓄音器型録」によると、三光堂は「明治期に隆盛した蓄音器会社。米コロンビア会社から器械を輸入して販売していました」〔三光堂一覧〕。また、ウェイブサイト「78MUSIC」によると、明治43年に設立された「日本蓄音器商会」が大正12年に三光堂を買収し、昭和3年に子会社として「日本コロムビア蓄音器」を設立している〔「http://78music.jp/hNipponophone.html 日本蓄音器商会・合同蓄音器のあゆみ」〕。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 「大本年表」による。
- ↑ 3.0 3.1 「大本年表」には、録音当日の3月7日(旧2月9日)は「高熊山入山満二十年」と記されているが、それは間違いである。高熊山入山は明治31年(1898年)旧2月9日(新3月1日)であり、大正11年(1922年)旧2月9日(新3月7日)は満24年になる。旧2月8日に記された第12巻総説歌#には「めぐりめぐりて二十四年」と記され、旧2月9日に口述された第12巻第8章「思出の歌」#には「花を手折りし今日の日は/二十五年の時津風」(数えで25年、あるいは満25年目に入ったという意味だと思われる)と記されているので、満20年ではない。この日は新暦だと明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日)に出口直日が生まれてから満20歳の誕生日であり、旧暦だと高熊山入山の記念日なので、両者が混同して「高熊山入山満二十年」という誤記になったのだと考えられる。
- ↑ 「聖師の肉体、生言霊発声の特徴 大国美都雄氏に聞く(聞き手 出口和明)」『いづとみづ』昭和63年(1988年)9月号、32頁
- ↑ みいづ舎『出口王仁三郎の言霊録』付録冊子の解説による
- ↑ 6.0 6.1 みいづ舎『出口王仁三郎の言霊録』付録冊子の解説による。そうすると「大本年表」に記されている大正11年3月8日や昭和6年6月3日は何なのか?不明。
- ↑ みいづ舎『出口王仁三郎の言霊録』付録冊子の解説16頁から引用。
- ↑ 「大本年表」にも記載あり。
- ↑ 9.0 9.1 カセットテープ版の説明文による。
- ↑ 販売ページの説明文より。
- ↑ 次のページにCD製作の苦労話が記されている。小久保隆インタビュー - 王仁魂復活プロジェクト
- ↑ ウィキペディアの「SPレコード#概要」にも似たようなことが書いてある。
- ↑ コロ「ン」ビアは底本通り。正しくは「ム」。
- ↑ 蓄音「機」は底本通り。正しくは「器」。