大石凝真素美
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略歴
次の略歴は主に「大石凝真素美先生伝」(『真訓古事記』巻末に収録)[1](「伝」と略す)をもとにして作成した。他に水谷清『古事記大講 第六巻(天津金木学綱要)』p5-8も参考にした(「大講」と略す)。年齢は基本的に数え年である。
- 天保3年(1832年)11月[2]、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は中村孝道に仕えて言霊学を究めた。(「大講」では、若い頃の名は「平岩大助」)[3]
- 遠祖は日臣斎主命。大伴氏の後裔。世々天朝に仕えて来たが、大友皇子の乱(壬申の乱)に殉じ、以来隠者となり、望月を姓として伊賀・近江等に転住して来たという。
- 望月春雄は元服して、大輔広矛と改名する。父や伯父、叔父に医を学ぶ。しかし医で生涯を終えるつもりはなかった。足代弘訓(あじろ ひろのり)[4]の門に入り国学を学ぶ。
- 嘉永6年(1853年)(22歳)黒船が浦賀に来航すると、望月は幕府の無能を歎き、神風を起こす大神人を探し求め、妻子を連れて旅に出る。美濃国不破郡宮代村[5]に住む山伏の山本秀道が大神人との噂を聞く。大和国を巡遊する。
- 文久3年12月(1864年[6])(32歳)学習院で皇学の蘊蓄を披露する。
- 天誅組[7]で皇国の道を説く。
- 慶応末年(1867~8年?[8])(36歳)山本秀道の家に身を寄せて師事し、神道の蘊奥を学ぶ。
- 明治3年(1870年)(39歳)山本門下生の木村一助と共に、濃尾国各部郡の神官たちに、有名無実の神道を廃して真神道を吹聴せよと説き、騒ぎとなる。警察は治安を害するとして二人を捕まえ投獄する。
- 疑いが解けて出獄した後、明治6年(1873年)9月、太祖の姓に復り、大石凝真素美と改名する(→#名の由来)。再び山本家に寄寓して神道の闡明に尽くす。木村一助は太玉太観(ふとだまふとみ)と改名する。
- 明治8年(1875年)秋(44歳)太玉太観と東上し、山岡鉄太郎を訪ねる。9年4月21日、誓火(うけひ)の霊験を実験するが太玉太観は失敗し、片手が焦げて失ってしまう。大石凝は帰途に就き、近江国甲賀郡毛牧村にて謹慎する。
- 再び大和国を巡遊する(大和三山に関する話は「古事記神秘之正説」に詳しい)。吉野山で金鉱を探す。
- 大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って琵琶湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「水茎文字」
- その後、五男神誕生の地である阿賀山と吾勝山を参拝する。→詳細は「蒲生」
- 明治11~2年(1878~9年)、再び山本秀道宅に寄寓し、天津金木と日本言霊を研鑽する。「日本言霊は先生独特の大研鑽にして、其の基く所の原本等は多少これありしなるべけれど、七十五声の排列、其の神機の妙用等は慥に先人未発の大発見にして(略)古今独歩の感あり」「天津金木は(略)開闢以来嘗て未だ世に知られざるの極法なり」[9]。
- 明治23年(1890年)7月(59歳)「弥勒出現成就経」を著す。
- 明治23年(1890年)伊勢神宮で種々の改革が行われ、「お見比べ」の秘事(二十年毎の式年遷宮の際、旧殿と新殿の宝物を見比べて相違ないことを確認する儀式)が廃されて、新殿建築と同時に旧殿が壊されることになった。大石凝はそのことを驚き、神威を冒涜する罪は必ず至るとして、「神宮の正殿は炎上せむ」と予言する。(大石凝はこの時、伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下に住んでいた)
- 明治31年(1898年)実際に伊勢神宮が炎上する。それ以前にも他の予言が成就したことがあり、世人を驚かすと同時に、大石凝が火をつけたのではないかと疑われた。
- 明治31年(1898年)7月18日(67歳)、近江の吾勝山に詣でた時、警察が逮捕しに現れる。容疑は詐偽。大石凝は同行を拒否し、山上の家に禁足し、8月10日まで24日間、留まった。その間、宮代村の山本秀道の令息・一治が警察に弁明したため、事件は解決した。山上で禁足中に書いた著述を後に大成したものが「天地茁廴貫きの極典」である。
- 明治40年(1907年)秋(76歳)「真仮名附法華経序書」を携えて、名古屋市七曲町の唯一仏教団・清水梁山を訪ねる。
- 明治41年(1908年)6月初旬、唯一仏教団に寄寓していた水谷清は、夢のお告げにより神辺村木下を訪れて大石凝に面会し、天津金木の運用を授けられて、数日滞在の後帰国する。
- 同年10月、大石凝は唯一仏教団を再訪する。その後、名古屋の水野満年の宅に寄寓し、古典の研鑽や著述に従事する。
- 明治44年(1911年)末(80歳)より体調がすぐれず。
- 明治45年(1912年)2月26日、郷里に帰る。
- 大正2年(1913年)4月11日、帰幽。82歳。
- 墓は伊勢国鈴鹿郡神辺村木下にある。
名の由来
大石凝真素美という名の由来について「伝」は触れていない。他の資料[10] [11] [12]によると、自分は稗田阿礼(古事記編纂者の一人)の生まれ変わりであり、霊統としては、山本秀道は玉祖命、自分は石凝姥神(どちらも天の岩戸開きで活躍した神)の系統であることを覚ったのだという。真素美は「真素美の鏡」に由来する。
天津金木
大石凝真素美は山本秀道と共に天津金木を研鑽した。山本家に天津金木が御神体として祭られていたことがきっかけだが、大石凝は山本秀道との出会いによって初めて天津金木を知ったわけではなく、中村孝道の教えに天津金木の原形となる概念があり、それを祖父の望月幸智を通して伝え聞いていたようである。[13] [14]
言霊学
王仁三郎との関わり
王仁三郎が大石凝真素美と初めて会ったのは、明治31年(1898年)のことである[16]。清水の長沢雄楯を訪ねた帰りに汽車の中で会った[17]。何度か長沢を訪ねているが、何度目の時かは不明。その年の「秋」[18]には大石凝に伴われて水茎の岡へ行き琵琶湖に浮かぶ水茎文字を実見している。
主な著作
次の著作は『大石凝真素美全集』(全3巻)に収録されている。(大宮司朗「大石凝真素美全集解題」[19]を参考に作成した)
- 天地茁廴貫きの極典(又は「天地茁廴貫きの巻」):明治33年(1900年)11月、67歳の著作。『神霊界』大正7年(1918年)8月15日号(大八洲号)で大略が紹介されている。
- 三種神器の御謂礼:明治38年(1905年)の著作。『神霊界』大正9年(1920年)5月11日号に掲載されている。それより前、大正7年(1918年)3月1日号に、似たような内容の「三種神器の由来」と題する文書が掲載されている。
- 仏説観弥勒下生経(上・下):明治23年(1890年)3月の著作。
- 弥勒出現成就経:明治23年(1890年)7月の著作。『神霊界』大正8年(1919年)4月15日号から9月15日号にかけて10回に分けて連載されている。
- 大日本言霊:明治36年(1903年)春、72歳の著作。
- 天津神算木之極典:明治38年(1905年)74歳の著作。
- 真訓古事記:明治45年(1912年)1月の著作。『神霊界』大正9年(1920年)6月1日号から10月21日号にかけてと、大正10年5月1日・6月1日に10回に分けて連載されている。
その他に、次の著作が『神霊界』に掲載されている。
- 真仮名付法華経之序書:『神霊界』大正9年(1920年)11月11日号・12月1日号・10年2月1日の3回に分けて連載。
- 大石凝翁遺書:『神霊界』大正9年(1920年)2月21日号~5月11日号に8回に分けて連載。
脚注
- ↑ 「大石凝真素美先生伝」は大正14年(1925年)に水野満年によって発行された大石凝真素美・著『真訓古事記』の巻末に収録されている(戦後発行された『大石凝真素美全集』の第三巻に収録)。著者は不明だが、大宮司朗「大石凝真素美全集解題」(『大石凝真素美全集 解説編』収録)では、水野満年または国華教育社の同人の手によるものと推測している。大正10年(1921年)11月に発行された宇佐美武吉『言霊学に映じたる神道』の巻末に収録されている「大石礙真素美翁伝」も、「大石凝真素美先生伝」とほぼ同じ内容だが、「~翁伝」の方が文が短い。
- ↑ 天保3年11月はグレゴリオ暦だと1832年11月22日~12月21日。
- ↑ 大宮司朗「「天津金木」秘占秘儀」(学研ムー1994年8月号)では、大石凝真素美に改名する前は「望月大輔」だとしている。
- ↑ 足代弘訓は、国学者。伊勢国山田に生まれる。父は伊勢神宮権禰宜。足代弘訓 - コトバンク 足代弘訓 - ウィキペディア
- ↑ 「大講」では「山中村」だが誤記だと思われる。
- ↑ 文久3年12月はグレゴリオ暦だと1864年1月9日~2月7日。
- ↑ 中山忠光を擁した尊王倒幕の急進派。天誅組 - コトバンク 天誅組 - ウィキペディア
- ↑ 「伝」には「慶応末年の事たるべきか。年齢正に三十六歳」と書いてあり、何年かは断定されていない。
- ↑ 「伝」p15-16
- ↑ 「天津神算木之極典 第二巻」『大石凝真素美全集 第二巻』収録、p356
- ↑ 大宮司朗「「天津金木」秘占秘儀」(学研ムー1994年8月号)p109
- ↑ 山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」『大石凝真素美全集 解説篇』収録、p84
- ↑ 山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」『大石凝真素美全集 解説篇』収録、p83
- ↑ 大宮司朗・武田洋一「大石凝真素美とその霊的遡源」『大石凝真素美全集 解説篇』収録、p54
- ↑ 大宮司朗・武田洋一「大石凝真素美とその霊的遡源」『大石凝真素美全集 解説篇』収録、p47
- ↑ 『新月の光』0631「王仁と言霊学」には「大石凝先生に会ったのは明治三十五年」と記されている。しかしその後ろの方に「自伝自画には明治三十二年四月とあり」と注意書きがしてあり、初めて会った年は明瞭でない。
- ↑ 17.0 17.1 『新月の光』0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである」
- ↑ 『敷島新報』第12号(大正4年6月15日):「吾人は神典古事記を真解せんとして水茎文字の研究に腐心すること十数年二十八歳の秋大石先生に伴はわれて天の真奈井の珍現象を実見せし」(『大石凝真素美全集 解説篇』p60に掲載)
- ↑ 『大石凝真素美全集 解説編』収録
関連項目
外部リンク
- 大石凝真素美 - ウィキペディア
- 大石凝霊学全集 全3巻 - 八幡書店