大安石と小安石
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大安石(だいあんせき)と小安石(しょうあんせき)は、天恩郷にある巨大な霊石。小安石は「赤子岩」とも呼ばれる。
概要
大安石は長野支部から献納されたもので、病気(特に胃腸など内臓の病気)平癒に神徳があり、小安石は亀岡市曽我部町 [1] から納められたもので、子供の病気平癒や子宝・安産に恵まれるとされる。
伊都能売観音様の前に据ゑられた二つの石がある。平たい方を小安石と名づけ、も一つの方を大安石と命名し、どちらも鎮魂して平安石と同じく病気の人達がお蔭を頂くやうにした。小安石は一名赤子岩と名づけられ、赤子の足跡があると云ふので有名な岩である。南桑田郡曽我部村法貴谷[2]はこの岩があつたため名所になつて居た程であるから、普通では中々手に入らないのであるが、天恩郷に上るのならば結構であるとて譲つて呉れた。この岩には小児の病気平癒をお願ひするがよい、又子の無い人は子宝を得るやうにお願ひするがよい。赤子の足跡だと云つて居るが、実は天人の足跡である。大安石は総ての病を癒して頂くのであるが、特に胃腸等腹部の病に結構である。霊を入れると云ふても、私は唯岩に命令をするだけの事で、命令を受けると、其時から直ぐ石は其働きを起すのである。
大安石も小安石も昭和2年(1927年)に月宮殿(現在は月宮宝座)の登り口、伊都能売観音坐像の下に安置された。第二次大本事件で撤去されたが、現在はまた元の位置に安置された。
大安石は現在の倍ほどの大きさだったが、第二次大本事件の際に当局によって半分に割られてしまった。現在安置されている大安石の下に、割られた破片の一部が置かれている。小安石も、石の表面の一部が削られてしまった。[3] [4]
第二次大戦後、天恩郷が再建された時、王仁三郎の指示で小安石は瑞祥館の入口付近(平安観音の前)に置かれたが、後に三代教主の指示により元の位置(現在安置されている場所)に移された。[5]
略年表
- 昭和2年(1927年)6月18日、赤子岩(小安石)が天恩郷へ納まる。
- 同年6月19日[6]、月照山の西麓に仮安置される。
- 同年10月5日、長野支部から献納された国魂石(大安石)と赤子岩(小安石)が、伊都能売観音の下の石垣上に安置される。
〔この年表は「大本年表」をもとに作成した(注記ある場合を除く)〕
脚注
- ↑ 『大本年表』昭和2年(1927年)6月18日の項には「南桑田郡中村から」と記載されているが、現在の亀岡市曽我部町中(穴太の2~3キロ南方にある地域)のこと。ただし中村は明治22年(1889年)に法貴村などの隣村と合併して曽我部村となっている。昭和30年(1955年)に亀岡町などと合併して亀岡市となる。
- ↑ 法貴谷は中村の西隣の法貴村にある。
- ↑ 『みろくのよ』平成27年(2015年)7月号「大本いろは43 大安石と小安石」p62-63
- ↑ 『新月の光』1251「赤子岩と平安石と天拝石」によると昭和21年に王仁三郎は、第二次大本事件で無傷だったのは赤子石(小安石)と天拝石(月宮宝座の上に安置された石)のみであると語っている。
- ↑ 『新月の光』1251「赤子岩と平安石と天拝石」、同1240「瑞祥館入口の石垣」
- ↑ 『大本年表』には6月9日とあるが、19日の誤りだと思われる。