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八雲琴

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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八雲琴(やくもごと)は、二絃琴の一種。中山琴主(なかやまことぬし、1803~1880年)が創始した。大本の祭典で弾じられる。

中山琴主の略歴

  • 中山琴主は享和3年(1803年)5月15日、伊予国宇摩郡天満村(現・四国中央市土居町天満)で、医家の岸家に生まれた。幼名は「通郷」。
  • 文政3年(1820年)数え年18歳のとき、出雲国の天日隅宮(出雲大社)に参拝した折に、神意によって八雲琴を創案した。参拝した理由は諸説ある。
    • 患っていた眼病が治ったので、感謝のため出雲大社に参拝した。[1]
    • 〈八雲琴の故実をつたえる書によると、「元祖中山氏は、はやくから兵法と、医術の道に志しており、共にその奥儀を究めるには五音六律の微妙な音律をわきまえなくては、ならぬとして、文政三年十月天日隅宮に参寵し、夜もすがら天の沼琴の古をしのびつつ秘琴をかなで神に祈っていたが、夜半八雲山の神風が木々にふれ、竹にそよいで妙なるしらべがおこり、聴き入る程に、その音律の絶妙なるにうたれ神の御託とおぼえて、宇迦の神山の大竹を伐り琴を作り、天地陰陽に比して二絃をすげ、八雲立つ出雲八重垣の歌に撥合せたのが、八雲琴の発祥となった」とのべられている。〉[2]
  • 晩年は京都の深草に住んでいた[3]。公卿の中山忠能(ただやす/ただよし)に引き立てられ、宮中に上がることのできる「加賀之輔弾正太夫(かがのすけだんじょうだゆう)」に任官され、「中山加賀之輔弾正太夫吉士通郷」と名乗るようになった[4]。これによって中山姓となる。
  • 明治13年(1880年)9月18日、京都で帰幽。享年、満77歳(数え78歳)。

概要

  • 中山琴主が古事記歌謡の第一「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」(八雲神歌)を口ずさみながら最初の曲を作ったことにちなみ「八雲琴」と命名されたと伝えられている。[5]
    • 初めは「玉琴」[6]とか「出雲琴」と呼ばれていた。
  • 八雲琴は長さ108センチ(3尺6寸)、巾約12センチ(4寸1分~3寸8分)[7]、胴はなまこ型をしている。
  • 中山琴主の帰幽後は、大別して三つの流派が八雲琴を継承した。京都の村田友琴、東京の大岸元琴、伊予の黒田琴翁の三派である。[8]
  • 京都の村田友琴(むらた ともごと)が二代目宗家を継いだが、門下に後継者がおらず、兄弟弟子に当たる岡山県笠岡の大平直琴(おおひら すぐこと)の門下であった田中沢二(たなか さわじ。初代田中緒琴)が継承し、昭和6年(1931年)に三代目宗家となる。その後、宗家は「緒琴」を襲名。初代の娘の千草が四代目宗家(二代目緒琴)、千草の長男の宗彦が五代目宗家(三代目緒琴)を継いでいる。[9]
    • 田中緒琴(たなか おごと)によって大本に八雲琴が本格的に取り入れられた。→「#大本との関係
  • 金光教の一部の教会でも八雲琴が取り入れられている。[10]
  • 生国魂神社境内に、明治19年(1886年)に建立された八雲琴顕彰碑がある。

大本との関係

  • 大本の祭典で八雲琴が初めて使用されたのは、明治42年(1909年)11月22日(旧10月10日)、綾部に最初の神殿(旧本殿)が完成した時である。王仁三郎に命じられて、梅田ヤスが弾奏した[11]
    • 前夜、弥仙山山頂から神霊を迎え、当日夜、王仁三郎斎主のもと、神殿の落成式と遷宮式が執行された[12]
    • 梅田ヤスの夫は大本幹部の梅田常次郎
  • 大本の祭典に八雲琴が本格的に取り入れられるようになったのは、大正13年(1924年)に田中緒琴(田中沢二)が綾部に移住してからである。
    • 田中は明治35年(1902年)岡山県笠岡で生まれ、大正8年(1919年)大本に初めて参拝して入信した。そのとき綾部で八雲琴の弾奏を聞いて心を動かされた。帰郷後、自宅近くに住んでいた大平直琴(中山琴主の直弟子)に師事して5年間稽古を続ける。大正12年(1923年)二代目宗家の村田友琴から皆伝を受ける。三代直日に頼まれ笠岡から綾部に通って八雲琴の指導を続けていたが、大正13年(1924年)綾部に移住し、大本祭典奏楽の奉仕と伶人の指導に専念することになった。「緒琴」という雅名は直日から贈られた。

参考文献

(本項の解説は注記のないものは次の文献に基づく)

  • 窪田英樹『八雲琴の調べ
  • 大本七十年史 下巻』「八雲琴と大本#
  • 昭和3~4年刊『国史大辞典』2294頁、吉川弘文館、NDLDL蔵書 PID:1172046/1/201:〈八雲琴 琴の一種、焼桐にて製す、形状筑紫琴と大差なし、長さ三尺六寸、頭巾四寸一分、尾巾三寸八分、二絃なり、もと出雲大社にて、「八雲立」の歌を奏して弾じたるより此名ありといふ、而して之を弾ずるには、必ず琴台といへる机の上に載するを法とす(風俗画報)〉

その他の関連資料

  • 中山琴主 著『八雲琴譜』、NDLDL蔵書 PID:857730
  • 八雲琴をしのぶ会 編『八雲琴──現代に伝える祈りの響き』平成元年(1989年)、NDLDL蔵書 PID:13235118
  • 八雲琴(八雲琴五代目宗家 田中宗彦のサイト)
  • 中山琴主 - コトバンク
  • 二弦琴 - ウィキペディア

脚注

  1. 『八雲琴の調べ』214頁
  2. 『大本七十年史 下巻』「八雲琴と大本#」:引用文の原典(八雲琴の故実をつたえる書)は不明。
  3. 『八雲琴の調べ』82頁
  4. 『八雲琴の調べ』220頁
  5. 『八雲琴の調べ』3頁
  6. [1]
  7. 『国史大辞典』
  8. 『八雲琴の調べ』6~7頁
  9. 神伝 八雲琴 宗家 田中緒琴の系譜」(八雲琴五代目宗家 田中宗彦のサイト内)
  10. 『八雲琴の調べ』8~21頁
  11. 『大地の母』によると、梅田ヤス(安子)はもともと八雲琴を習っており、それで王仁三郎に、祭典で弾奏してくれと命じられた。〔みいづ舎版『大地の母 第9巻』「鼬の最後屁」〕
  12. 『大本七十年史 上巻』「造営と宣教#