神島開き

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
2019年1月10日 (木) 01:04時点におけるIHiroaki (トーク | 投稿記録)による版 (神島開きを扱っている文献)
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神島開き(かみじまびらき)は、大正5年(1916年)に行われた神業。

同年6月、9月、10月の3回にわたる神島参りを「神島開き」と呼ぶ。

一度目の参拝

大正5年(1916年)のある春の夜、王仁三郎の霊眼に、坤の方面の沖合に炮烙(ほうらく)[1]を伏せたような島が見えた。それ以降、左の歯茎の上の辺りが痛み出し、48日目にそこから一つの舎利(骨)が出て来た。それは霊眼で見た島の形そのものであった。その島を探すよう信者に命じたところ、兵庫県の高砂沖にある上島がそれであろうという報告があった。その島は後に大本では「神島」と呼ばれることになる。→島の詳細は「神島」を見よ

王仁三郎の霊覚では、その島に坤の金神の分霊が鎮まっているという。その神霊を迎えるために、6月25日(旧5月25日)王仁三郎は直日大二ら一行60人と共に鉄道で高砂浦(たかさごうら)[2]に向かった。出発した頃から雨が降り出していたが、高砂に着いた頃には激しくなり風も吹き始めていたため、出船が危ぶまれた。王仁三郎は坤の金神として女装をし、準備が整った頃には風雨は収まった。一行は3隻の船に分乗して神島に向かった。

一行は王仁三郎を先頭に、6尺まりの矢竹の茂みを切り開きながら進み、300mほど上がった平面の地を斎場にした。王仁三郎は弓矢で、艮と坤の空に向かって射る型をして四方を祓い、鎮魂の神事を行った。持参して来た祠で神島の大神(坤の金神)の鎮祭をし、その神祠を捧持して島を離れた。

28日に帰綾し、竜宮館に神島の大神を奉迎した。こうして神島が開かれたが、その意義は艮の金神と坤の金神との対面にあると解され、出口直と王仁三郎との間に祝盃があった。

二度目の参拝

9月8日(旧8月11日)王仁三郎ら一行6人が再び神島に渡った。王仁三郎は島の海岸の岩の洞穴で神宝を受けた。帰綾後、金竜海大八洲神社の岩戸の中に神宝を仮遷座した。9月12日に出口直はこの岩戸に参拝。この時、澄子に神懸かりがあった。

三度目の参拝

10月4日(旧9月8日)、出口直王仁三郎澄子直日ほか出口家全員で神島に向かった。途中で各地からの参拝者も加わり、一行は百数十人となった。翌10月5日(旧9月9日)一行は9隻の船に分乗して神島に渡った。新しく造った神祠で坤の金神の鎮座祭を行い、王仁三郎は剣で大祓いの神事を執行した。このとき、王仁三郎の娘の一二三(4歳)と尚江(1歳)が、無心に松の枝でその辺りを掃き出し、自ら尉と姥の型をさせられた。一行は7日夜に帰綾した。

出口直は神島参りの時、王仁三郎の霊魂がミロクの神であるという神示を受け、非常に驚いた。その日の筆先には次のように出ている(大本神諭から引用)。

五六七神様(みろくさま)の霊はみな上島(かみじま)へ落ちておられて、未申の金神どの、素盞嗚尊小松林の霊が、五六七神(みろくのかみ)の御霊(みたま)で、結構な御用がさしてありたぞよ。ミロク様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。(略)今度上島へ坤の金神の身魂がお参りになりたについて、変性女子の御苦労な御用の事実を顕わすぞよ。変性女子が現れると、坤の金神どのの神力が出るから、誠の心で願えば何事でもすぐに聞き済みあるぞよ。(略)何かの時節が参りたから、これから変性女子の身魂を表に出して、実地の経綸(しぐみ)を成就いたさして、三千世界の総方様へ御目にかけるが近よりたぞよ。出口直八十一歳の時の筆記(しるし)。
出典:大本神諭 大正五年旧九月九日#

この神示により、王仁三郎を守護していた、悪神とも言われた「小松林の霊」も、「素盞嗚尊」の霊も、「五六七神の御霊」であったことが判明し、それまで一部の役員たちから排斥されていた王仁三郎の御霊は、根本の天の先祖であるミロク様の霊統であることが明らかにされた。

これによって出口直の王仁三郎に対する神格や使命に対する認識が大きく変わることとなり、25年間の未顕真実(未見真実)が終わり、顕真実(見真実)の境地へと入った。[3] →「見真実

参考文献

本項の記事は特別な注記がない限り、『大本七十年史 上巻』「神島開き#」をもとに作成した。

神島開きを扱っている文献

脚注

  1. 炮烙(ほうらく、ほうろく)とは「素焼きの平たい土鍋」〔広辞苑〕のこと。
  2. 播州鉄道の駅。大正3年開業。その後、高砂港駅と改称し、昭和59年(1984年)に廃止。高砂港駅 - ウィキペディア
  3. 第7巻総説#:「要するに教祖は、明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未見真実の境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである」