変性女子は偽者
変性女子は偽者(へんじょうにょしはにせもの)は、霊界物語第13巻巻末に収録されている「信天翁(三)」と題した歌の一節。王仁三郎が「自分は偽者(偽の救世主)だ」と自白していた歌だと誤解して、王仁三郎の権威を否定したり、自分自身の権威付けに利用したりする人たちがいた。
目次
概要
この歌は王仁三郎が、霊界物語を酷評・中傷する信者や学者、マスコミ等を批判している歌である。大正11年(1922年)10月に発行された初版及び昭和6年(1931年)10月に発行された再版では、歌の最後の部分は次のようになっている。
これを読むと「今の変性女子(王仁三郎のこと。また救世主のこと)は偽者で、美濃(岐阜県南部)か尾張(愛知県西部)から本物の変性女子が出現する」と解釈できる。そのため、王仁三郎は偽者(偽の救世主)だと取り違いした信者たちがいた。
しかし王仁三郎は昭和10年(1935年)3月、第13巻再版をもとに直筆で校正した際に、「アヽ惟神々々」以降を消して、次のように書き換えた。
つまりこの歌は、「『今の変性女子は偽者だ』『美濃か尾張から本物が現れる』と嘘を吹聴する人たちがいるが、真実が判らずに全くお気の毒である」と王仁三郎が嘆いていることになる。
この校正された霊界物語が初めて発行されたのは昭和34年(1959年)11月(普及版)である。校正箇所を知らない人たちによって、自分自身の権威付けなどに利用された。たとえば中野与之助(1887~1974年)は大本を脱退し昭和24年(1949年)に静岡県清水で「三五教」を開教したが、大本信者を勧誘するためこの信天翁を利用したことが、音羽遊「仕掛けられた「アホウドリ」の秘密」[2]に記されている。
霊界物語第十三編[3]の信天翁の宣伝歌を御拝読下さい。「目がさめたら出て来なよ」と歌ってありますが、お気付きに成つたら清水の三五教にお出かけください。
と、王仁三郎亡き後、真の救世主が三五教にあらわれたとばかり、この信天翁を使い大本切り崩しをはかったことがある。昭和二十八年頃のことだ。当時は昭和十年の「王仁校正」部分の公表以前であり、鬼の首を取ったように、この部分を<活用>したのであろう。大本教団もあわてたのか、昭和二十九年正月号の機関誌『愛善苑』で、王仁三郎の校正部分を写真版で公表し、その本心が奈辺にあったかを解説している。昭和34年の普及版発行後も、大本系の宗教等で「変性女子は偽者」という話が一人歩きをしている。
たとえば岡本三典(1917~2009年、岡本天明夫人)は至恩郷の機関誌『至恩通信』の中で、第13巻の信天翁(おそらく校定版)を「一人の目明きが気をつける」まで引用し、それ以降を「以下略」とした上で、「これを見ると、出口王仁三郎師は、自らを似而非(にせ)ものだと断じておられる。この歌は以前から知っていたから真人は天明かと思っていたが、今では命波の小田野早秧先生に間違いないと思っている」と記している[4]。
また、中矢伸一は著書の中で、信天翁を引用し、さらに前述の音羽「仕掛けられた~」に書いてある情報を記した上で、「何故王仁三郎は、わざわざ混乱を招くような文を発表し、さらに、後になって意味を引っ繰り返すような修正を加えたのか、真実のところは謎である。おそらく、しかるべき人物にのみ自分がニセモノであることを伝えようとしたのではないか」と推測している[5]。
中野、岡本、中矢のいずれも、自分が本物だと思う人物(中野本人や、天明・小田野)を主張したいがために、「信天翁」を利用しているのだと考えられる。つまり王仁三郎の権威を利用して王仁三郎自身を「偽者」だと断定し、その「偽者」である王仁三郎の権威を利用して、自分が思う「本物」を権威付けるという、全く矛盾したことになってしまっている。
参考文献
- 諸田友雄「変性女子はニセ者か 「信天翁」のとりちがい」、『神の国』昭和30年(1955年)8月号pp.66-68
- 音羽遊「仕掛けられた「アホウドリ」の秘密」、八幡書店版霊界物語の月報3(1989年9月発行)pp.5-6掲載