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:'''オーモトキョー''' 大本教 第四巻二頁参照。大正十年に所謂大本教不敬事件を惹起し、第一審、第二審共に最重刑を言渡され、これを不服として上訴、上告審の進行中、畏くも[[大赦]]の恩典に浴しその罪責を免除せられたが、その後なほ態度を改めず、教団幹部等の言動は屢々不敬に渉り、国体に反すること多く、而も表面皇道の名を僭して三十余万の大衆を信徒に獲得し、一方満洲地方にあつては紅卍教と結んで勢力を張り、その巨大なる勢力を擁して隠微の間に不逞思想を醞醸し、一種の社会運動に出でんとする形跡あることが認められたので、昭和十年十二月八日、当局は遂に断然たる検挙の手を加へ、教主王仁三郎等を不敬罪並に治安維持法違反として起訴、翌十一年三月十三日、皇道大本並にその別働団体たる昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社などに対し、治安警察法に依つて解散を命じ、同時に綾部、亀岡の両本部、及び東京、松江の両別院は勿論、二分院、九分所、百二十七支所を悉く閉鎖せしむると共に、その関係建物の一切は明治五年八月三十一日大蔵省令第百十八号無願寺院仏像創立禁止取締規則により、五月十五日までに破却或は撤去すべしとの強行命令を与へた。爾来被告王仁三郎等に対し取調を続行すること二年八箇月、昭和十三年八月十日に至つて第一回公判を開廷、のち五十六回の公判を経て、事件は今なほ京都地方裁判所に繋属中である。 | :'''オーモトキョー''' 大本教 第四巻二頁参照。大正十年に所謂大本教不敬事件を惹起し、第一審、第二審共に最重刑を言渡され、これを不服として上訴、上告審の進行中、畏くも[[大赦]]の恩典に浴しその罪責を免除せられたが、その後なほ態度を改めず、教団幹部等の言動は屢々不敬に渉り、国体に反すること多く、而も表面皇道の名を僭して三十余万の大衆を信徒に獲得し、一方満洲地方にあつては紅卍教と結んで勢力を張り、その巨大なる勢力を擁して隠微の間に不逞思想を醞醸し、一種の社会運動に出でんとする形跡あることが認められたので、昭和十年十二月八日、当局は遂に断然たる検挙の手を加へ、教主王仁三郎等を不敬罪並に治安維持法違反として起訴、翌十一年三月十三日、皇道大本並にその別働団体たる昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社などに対し、治安警察法に依つて解散を命じ、同時に綾部、亀岡の両本部、及び東京、松江の両別院は勿論、二分院、九分所、百二十七支所を悉く閉鎖せしむると共に、その関係建物の一切は明治五年八月三十一日大蔵省令第百十八号無願寺院仏像創立禁止取締規則により、五月十五日までに破却或は撤去すべしとの強行命令を与へた。爾来被告王仁三郎等に対し取調を続行すること二年八箇月、昭和十三年八月十日に至つて第一回公判を開廷、のち五十六回の公判を経て、事件は今なほ京都地方裁判所に繋属中である。 | ||
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;原田熊雄著『西園寺公と政局』 | |||
:全9冊。元老・西園寺公望の政治秘書であった原田熊雄が、職務上知り得たことを口述し、記録させたもの。 | |||
:第二巻(昭和25年発行)昭和6年(1931年)10月2日口述、76頁:〈その後拓務省には、「宣統帝を擁立しようとする復辟運動には、大本教の出口王仁三郎なんかも働いてゐるし、また土肥原大佐も力を添へてゐる」といふやうな報告が来てゐる。〉 | |||
:第四巻(昭和26年発行)昭和10年(1935年)12月25日口述、392頁、12月13日の記事:〈総理の所から帰って暫くすると、警保局長が訪ねて来て、例の大本教の検挙の問題をいろいろ話してをつた。で、 「結局不敬罪と治安維持法の両方を適用することができるやうな犯罪事実がある。昭和神聖会の方は大日本生産党と関係があり、総裁は出口王仁三郎で、副総裁は内田良平といふやうなことになつてゐる。さうして政治家で、少しでも色気があるやうなところには、さかんに手紙をやりとりしてをつて、その手紙が相当に出て来た。」 といふ話であつた。〉 | |||
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