「大日本武道宣揚会」の版間の差分

ページの作成:「'''大日本武道宣揚会'''(だいにほんぶどうせんようかい)は、大本の外郭団体。昭和7年に出口王仁三郎が総裁、植芝盛平が会長となり発足。〈建国の大精神に基き大日本武道の宣揚を為す〉ことが目的<ref>会則第2条</ref>。合気武術の修練を主とし、併せて剣道の修行も行った<ref>『竹田別院五十年誌』137頁</ref>。第二次大本事件によっ…」
 
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だが結局、「大日本武道宣揚会」という名称で、[[昭和青年会]]から独立した団体として設立されることになった。<ref>『[[中外日報]]』昭和7年7月21日掲載記事(『[[壬申日記]] 7の巻』256頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/147}})</ref> <ref>『[[北国夕刊新聞]]』昭和7年(1932年)7月26日掲載記事(『[[壬申日記]] 7の巻』307頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/172}})</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年8月5日号の記事「武術部より」(『[[壬申日記]] 7の巻』301頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/103}})に次の記載がある。〈植芝守高氏は生誕祭(編注・8月13日の聖師生誕祭)の前後各一週間、天恩郷の道場に於て『相気武術会』なるものを創立する事を許され、会長(編注・王仁三郎)は総裁となり、宇知麿氏総裁補、植芝守高氏会長に決定し、他は適当に実施すべき旨(編注・が王仁三郎から)お示しがあった。〉これは二週間だけの限定の会ということか?</ref>
だが結局、「大日本武道宣揚会」という名称で、[[昭和青年会]]から独立した団体として設立されることになった。<ref>『[[中外日報]]』昭和7年7月21日掲載記事(『[[壬申日記]] 7の巻』256頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/147}})</ref> <ref>『[[北国夕刊新聞]]』昭和7年(1932年)7月26日掲載記事(『[[壬申日記]] 7の巻』307頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/172}})</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年8月5日号の記事「武術部より」(『[[壬申日記]] 7の巻』301頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/103}})に次の記載がある。〈植芝守高氏は生誕祭(編注・8月13日の聖師生誕祭)の前後各一週間、天恩郷の道場に於て『相気武術会』なるものを創立する事を許され、会長(編注・王仁三郎)は総裁となり、宇知麿氏総裁補、植芝守高氏会長に決定し、他は適当に実施すべき旨(編注・が王仁三郎から)お示しがあった。〉これは二週間だけの限定の会ということか?</ref>


昭和7年(1932年)8月13日(旧7月12日)聖師生誕祭の日に大日本武道宣揚会が発足する<ref name="hossokubi" />。総裁・[[出口王仁三郎]]、総裁補・[[出口宇知麿]]、会長・[[植芝守高]]。顧問には[[出口日出麿]]、蓮井継太郎(大日本国粋会理事)、中山博道(剣道範士)、二木謙三(医学博士)、三浦真(陸軍少将)が就任した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』137頁</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号92頁〈中山博道氏、二木謙三氏、蓮井継太郎氏、三浦真氏等一流の大家名士が顧問となつて居られ〉</ref>。
昭和7年(1932年)8月13日(旧7月12日)聖師生誕祭の日に大日本武道宣揚会が発足する<ref name="hossokubi">『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』610頁の年表に〈八月十三日大日本武道宣揚会創立。〉とあるので、公式にはこの日が創立日のようである。ただしそれ以前に設立されていたかのような記事も散見する。『[[人類愛善新聞]]』昭和7年8月上旬号(8月3日発行)3頁には〈七月下旬号に予告した大日本武道普及会は'''七月十八日'''を以て亀岡総本部に日本武道宣揚会として設置された〉とある。『北国夕刊新聞』7月26日号の記事や、『参陽新報』7月26日の記事(『[[壬申日記]] 7の巻』308頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/173}})は、会が結成されたことが過去形で報道されている。「[[大本年表]]」の昭和7年7月26日の項に〈大日本武道宣揚会創立。聖師を総裁に植芝守高を会長として8・13発足。〉と記されているが、なぜ7月26日の項に記されているのか理由がよく分からない。前述の新聞の発行日か?</ref>。総裁・[[出口王仁三郎]]、総裁補・[[出口宇知麿]]、会長・[[植芝守高]]。顧問には[[出口日出麿]]、蓮井継太郎(大日本国粋会理事)、中山博道(剣道範士)、二木謙三(医学博士)、三浦真(陸軍少将)が就任した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』137頁</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号92頁〈中山博道氏、二木謙三氏、蓮井継太郎氏、三浦真氏等一流の大家名士が顧問となつて居られ〉</ref>。


同年11月2日(10月30日から始まる大本大祭第四日)、[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会の第一回総会が開催される。<ref name="OMNP">「大本年表」</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号13頁。</ref>
同年11月2日(10月30日から始まる大本大祭第四日)、[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会の第一回総会が開催される。<ref name="OMNP">「大本年表」</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号13頁。</ref>
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references/>
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<ref name="hossokubi">『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』610頁の年表に〈八月十三日大日本武道宣揚会創立。〉とあるので、公式にはこの日が創立日のようである。ただしそれ以前に設立されていたかのような記事も散見する。『[[人類愛善新聞]]』昭和7年8月上旬号(8月3日発行)3頁には〈七月下旬号に予告した大日本武道普及会は'''七月十八日'''を以て亀岡総本部に日本武道宣揚会として設置された〉とある。『北国夕刊新聞』7月26日号の記事や、『参陽新報』7月26日の記事(『[[壬申日記]] 7の巻』308頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/173}})は、会が結成されたことが過去形で報道されている。「[[大本年表]]」の昭和7年7月26日の項に〈大日本武道宣揚会創立。聖師を総裁に植芝守高を会長として8・13発足。〉と記されているが、なぜ7月26日の項に記されているのか理由がよく分からない。前述の新聞の発行日か?</ref>


{{デフォルトソート:たいにほんふとうせんようかい}}
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[[Category:大本の組織]]
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