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2024年7月31日 (水) 14:52時点における版
加露ケ浜(かろがはま)は、霊界物語に登場する浜。鳥取県の千代川(せんだいがわ)の河口にある。
概要
- 表記ゆれ:賀露ケ浜(霊界物語では「加露ケ浜」だが、他の文献では「賀露ケ浜」とも表記される。一般には「賀露」の字が使われている)
- 第3巻附録 岩井温泉紀行歌#と第38巻第28章「金明水」#だけに出る。
主なエピソード
明治34年(1901年)7月(旧5月)出雲火の御用で出雲大社へ向かった出口直、王仁三郎ら一行15人は、千代川を汚い舟に乗って加露ケ浜に出て、加露ケ浜から舟で三保の関に行こうとした。しかし荒天のため加露ケ浜の船問屋(雲井旅館)に泊まることにした。
旅館には伊東祐亨・海軍中将が山陰沿海視察のため泊まっており、出口直は筆先を一枚書き宿屋の主人を通して伊東中将に、よく調べてくれと渡したが、その後何の返答もなかった。
王仁三郎は夜中頃に妙な夢を見た。それは際限なき原野に立っていると東から大きな太陽か月が昇り、だんだんこちらに近づき、澄子の懐へ入った夢だった。この時すでに澄子は妊娠しており、翌年3月に女の子(直日)が産まれたので、朝野に立っていた夢を思い出し「朝野(あさの)」と名付けた。
結局7月6日から8日まで三日間逗留したが、天気が回復しないためコースを陸路に変更し、10里ほど歩き、鳥取県東伯郡橋津村(現・湯梨浜町橋津)から舟に乗って三保の関へ向かった。〔以上第38巻第28章「金明水」#、『大本七十年史 上巻』「出雲の火のご用#」〕
現実の加露ケ浜
現在は鳥取港(旧称・賀露港)の一部になっている。
平成2年(1990年)に千代川の河口と港湾を分離する工事が完了し、現在の形状になった。[1]
歌碑
昭和42年(1967年)7月6日、賀露神社境内に王仁三郎の歌碑(史蹟歌碑とか加露ヶ浜歌碑と呼ばれる)が建立された。縦1m40cm、横2m30cmの青御影石[2]。
歌は「海鳥(うみどり)の声かしましく賀露ケ浜(かろがはま)のあしたになきて波の音(おと)高し」。
歌碑の台座には次のような「建碑趣旨」が彫られている。
昭和四十二年七月六日
賀露ヶ浜大本史蹟碑建立有志