「大安石と小安石」の版間の差分
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[[ファイル:大安石1.jpg|thumb|大安石]] | |||
[[ファイル:小安石1.jpg|thumb|小安石]] | |||
'''大安石'''(だいあんせき)と'''小安石'''(しょうあんせき)は、[[天恩郷]]にある巨大な二つの霊石。小安石は「'''赤子岩'''」とも呼ばれる。 | |||
== 概要 == | |||
大安石は長野支部から献納されたもので、病気(特に胃腸など内臓の病気)平癒に神徳があり、小安石は亀岡市曽我部町 | 大安石は長野支部から献納されたもので、病気(特に胃腸など内臓の病気)平癒に神徳があり、小安石は亀岡市曽我部町 | ||
<ref>『[[大本年表]]』昭和2年(1927年)6月18日の項には「南桑田郡中村から」と記載されているが、現在の亀岡市曽我部町中(穴太の2~3キロ南方にある地域)のこと。ただし中村は明治22年(1889年)に法貴村などの隣村と合併して曽我部村となっている。昭和30年(1955年)に亀岡町などと合併して亀岡市となる。</ref> | <ref>『[[大本年表]]』昭和2年(1927年)6月18日の項には「南桑田郡中村から」と記載されているが、現在の亀岡市曽我部町中(穴太の2~3キロ南方にある地域)のこと。ただし中村は明治22年(1889年)に法貴村などの隣村と合併して曽我部村となっている。昭和30年(1955年)に亀岡町などと合併して亀岡市となる。</ref> | ||
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大安石は現在の倍ほどの大きさだったが、第二次大本事件の際に当局によって半分に割られてしまった。現在安置されている大安石の下に、割られた破片の一部が置かれている。小安石も、石の表面の一部が削られてしまった。<ref>『[[みろくのよ]]』平成27年(2015年)7月号「大本いろは43 大安石と小安石」p62-63</ref> <ref>『新月の光』1251「赤子岩と平安石と天拝石」によると昭和21年に王仁三郎は、第二次大本事件で無傷だったのは赤子石(小安石)と天拝石(月宮宝座の上に安置された石)のみであると語っている。</ref> | 大安石は現在の倍ほどの大きさだったが、第二次大本事件の際に当局によって半分に割られてしまった。現在安置されている大安石の下に、割られた破片の一部が置かれている。小安石も、石の表面の一部が削られてしまった。<ref>『[[みろくのよ]]』平成27年(2015年)7月号「大本いろは43 大安石と小安石」p62-63</ref> <ref>『新月の光』1251「赤子岩と平安石と天拝石」によると昭和21年に王仁三郎は、第二次大本事件で無傷だったのは赤子石(小安石)と天拝石(月宮宝座の上に安置された石)のみであると語っている。</ref> | ||
第二次大戦後、天恩郷が再建された時、王仁三郎の指示で小安石は[[瑞祥館]]の入口付近([[平安観音]] | 第二次大戦後、天恩郷が再建された時、王仁三郎の指示で小安石は[[瑞祥館]]の入口付近([[平安観音]]の前)に置かれたが、後に[[三代教主]]の指示により元の位置(現在安置されている場所)に移された。<ref>『[[新月の光]]』1251「赤子岩と平安石と天拝石」、同1240「瑞祥館入口の石垣」</ref> | ||
== 略年表 == | == 略年表 == | ||
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== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[平安石]] | * [[平安石]] | ||
* [[伊都能売観音坐像]] | |||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* | * {{wp|曽我部村}} | ||
== 脚注 == | |||
<references/> | |||
{{デフォルトソート:たいあんせきとしようあんせき}} | {{デフォルトソート:たいあんせきとしようあんせき}} | ||
[[Category: | [[Category:天恩郷]] | ||
[[Category:大安石と小安石|*]] | |||