「至聖殿」の版間の差分
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# [[霊界物語]]に登場する神殿。[[紫微天界]]の[[高日の宮]]にある。{{rm|73|26|主神の降臨}}だけに出る。 | # [[霊界物語]]に登場する神殿。[[紫微天界]]の[[高日の宮]]にある。{{rm|73|26|主神の降臨}}だけに出る。 | ||
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== 概要 == | == 概要 == | ||
− | * | + | * 大正9年2月に竣工した[[五六七殿]]は拝殿であり、その奥に造られた神殿が至聖殿である。渡り橋を経て別棟になっていた。桧皮葺きで、建坪30坪。<ref name="B195401c2323">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2323|綾部神苑の拡張と整備}}」</ref> |
== 略年表 == | == 略年表 == | ||
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* 昭和3年(1928年)3月3日、[[みろく大祭]]で、17人の幹部が至聖殿に昇殿して祭典を執行したが、これが当局から国体変革の秘密結社を結成したと曲解され、[[第二次大本事件]]の証拠とされた。→「[[みろく大祭]]」を見よ | * 昭和3年(1928年)3月3日、[[みろく大祭]]で、17人の幹部が至聖殿に昇殿して祭典を執行したが、これが当局から国体変革の秘密結社を結成したと曲解され、[[第二次大本事件]]の証拠とされた。→「[[みろく大祭]]」を見よ | ||
* 昭和11年(1936年)5月21日、第二次大本事件により至聖殿は倒壊される。<ref name="oomoto_nanpyou" /> | * 昭和11年(1936年)5月21日、第二次大本事件により至聖殿は倒壊される。<ref name="oomoto_nanpyou" /> | ||
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+ | 至聖殿落成式の際、[[天の御三体の大神]]を祭ることについて王仁三郎は次のように教示している。 | ||
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+ | [[国常立尊]]様は先づ第一に御三体のお宮を建て、さうして天の神の御降臨を仰いで、この世界の経綸をなされるのでありまして、謂はば国常立尊様は[[神界]]の教祖で、神界の秘事を洩らし、或は神界の御経綸を御自分で引受けなさる所の神様であります。詰り神界と現界とは合致したものでありますから、御三体の神様がお下りになるに就いては、社がなければどうしても鎮まつて戴く事は出来ませぬ。この地上が実に昔の儘の綺麗な世の中であつたならば、御宮は無くとも何処ヘでも神様は御下りになる訳であります。神様は実に有る所無きが如く、無き所無きが如しで、何処にでも神霊は充満して在る。我々も自分の御世話になつた人、或は自分の主人であるとか、目上の人がお出でになつたならば、座敷の一つも掃除をし、或は経済の許す人は新築して来て貰ふのであつて、御宮を建てると云ふことも、それと同じである。最も尊いこの上高い所はないと云ふ神様に、此地上に御降臨を乞ふのであるから、[[艮の金神]]様も自分の宮は何処でも宜い、何でも宜いと仰せられて居ります。それよりも御三体の神様の御宮を建てゝ、その外立替の御用をなさつた神様、すベて御力を添へ下さつた神様に御礼の為に御祭りすると云ふことが書いてあります。神様からして敬神の大道を実行なさつて居られるのであります。 | ||
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+ | 総て神界の事が現界へ移るのであつて、[[大国主]]神様が御自ら天津神を御祭りになつて居られます。之と同様に国常立尊様は、今度の立替の御用の魁として、御三体の神様を先づ御祭り遊ばすのであります。|『[[出口王仁三郎全集]] 第1巻』「{{obc|B121801c32|至聖殿落成所感}}」、初出『[[神霊界]]』大正9年9月21日号}} | ||
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2023年11月24日 (金) 20:53時点における最新版
至聖殿(しせいでん)は、
本項では綾部の至聖殿について解説する。
概要
略年表
- 大正9年(1920年)3月22日、斧始式。[1] [2]
- 同年5月20日、地鎮祭。6月1日、立柱式。6月9日、上棟式。[2]
- 同年9月14日、竣成。[2]
- 同年9月24日、竣成式。金竜殿から大本皇大神の神霊が遷座される。[1] [2] [3]
- 昭和3年(1928年)3月3日、みろく大祭で、17人の幹部が至聖殿に昇殿して祭典を執行したが、これが当局から国体変革の秘密結社を結成したと曲解され、第二次大本事件の証拠とされた。→「みろく大祭」を見よ
- 昭和11年(1936年)5月21日、第二次大本事件により至聖殿は倒壊される。[2]
天の御三体の大神のお宮
至聖殿落成式の際、天の御三体の大神を祭ることについて王仁三郎は次のように教示している。
国常立尊様は先づ第一に御三体のお宮を建て、さうして天の神の御降臨を仰いで、この世界の経綸をなされるのでありまして、謂はば国常立尊様は神界の教祖で、神界の秘事を洩らし、或は神界の御経綸を御自分で引受けなさる所の神様であります。詰り神界と現界とは合致したものでありますから、御三体の神様がお下りになるに就いては、社がなければどうしても鎮まつて戴く事は出来ませぬ。この地上が実に昔の儘の綺麗な世の中であつたならば、御宮は無くとも何処ヘでも神様は御下りになる訳であります。神様は実に有る所無きが如く、無き所無きが如しで、何処にでも神霊は充満して在る。我々も自分の御世話になつた人、或は自分の主人であるとか、目上の人がお出でになつたならば、座敷の一つも掃除をし、或は経済の許す人は新築して来て貰ふのであつて、御宮を建てると云ふことも、それと同じである。最も尊いこの上高い所はないと云ふ神様に、此地上に御降臨を乞ふのであるから、艮の金神様も自分の宮は何処でも宜い、何でも宜いと仰せられて居ります。それよりも御三体の神様の御宮を建てゝ、その外立替の御用をなさつた神様、すベて御力を添へ下さつた神様に御礼の為に御祭りすると云ふことが書いてあります。神様からして敬神の大道を実行なさつて居られるのであります。
総て神界の事が現界へ移るのであつて、大国主神様が御自ら天津神を御祭りになつて居られます。之と同様に国常立尊様は、今度の立替の御用の魁として、御三体の神様を先づ御祭り遊ばすのであります。