「大正日日新聞社」の版間の差分

 
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
10行目: 10行目:
* 表記ゆれ:大正日々新聞社
* 表記ゆれ:大正日々新聞社
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}}
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}}
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北野角田町333番地」。(住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」)
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北区北野角田町333番地」<ref>『新聞総覽 大正10年版』日本電報通信社、148頁、{{ndldl|11619538/1/196}}</ref>。(住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」)


== 略史 ==
== 略史 ==
17行目: 17行目:
しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。<ref name="B195401c2351" />
しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。<ref name="B195401c2351" />


最初の主な人事は、社主・[[出口王仁三郎]]、社長・[[浅野和三郎]]、編集局長・[[岩田久太郎]]、編集顧問・鳥居素川などであった。信者ではない旧社員と、信者との混成であったため、意見の対立が絶えず、軋轢が生じたものの、9月25日<ref>『大本七十年史 上巻』497頁では25日になっているが、復刊第1号の発行日は26日になっている。大本七十年史が誤字なのか? あるいは当時は翌日の日付で発行していたのか?</ref>に復刊第一号を発行。発行部数は48万部だった。<ref name="B195401c2351" /> (ちなみに大阪毎日新聞の大正10年元日時点での発行部数は約69万部<ref>小野秀雄・著『大阪毎日新聞社史』(大正14年4月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)p140~141([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/82 NDLDC])には大阪毎日新聞の大正3年から13年までの元旦号の発行部数が掲載されている。それによると大正8年は513,414部、9年は602,408部、10年は686,539部、11年は824,941部である。</ref>、大阪朝日新聞の大正10年上半期の平均実売部数は約48万部である<ref>山本武利『近代日本の新聞読者層』(1981年、法政大学出版局)p410~411の「別表4 『朝日新聞』の発行部数(1日)」による。勘定報告書(営業報告書)の決算上半期の平均実売部数で、大正8年は384,242部、9年は396,501部、10年は483,557部、11年は584,222部である。</ref>。)
最初の主な人事は、社主・[[出口王仁三郎]]、社長・[[浅野和三郎]]、編集局長・[[岩田久太郎]]、編集顧問・鳥居素川などであった。信者ではない旧社員と、信者との混成であったため、意見の対立が絶えず、軋轢が生じたものの、9月25日<ref>『大本七十年史 上巻』497頁では25日になっているが、復刊第1号の発行日は26日になっている。大本七十年史が誤字なのか? あるいは当時は翌日の日付で発行していたのか?(現在でも夕刊紙は翌日の日付で発行している)</ref>に復刊第一号を発行。発行部数は48万部だった。<ref name="B195401c2351" /> (ちなみに大阪毎日新聞の大正10年元日時点での発行部数は約69万部<ref>小野秀雄・著『大阪毎日新聞社史』(大正14年4月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)p140~141([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/82 NDLDC])には大阪毎日新聞の大正3年から13年までの元旦号の発行部数が掲載されている。それによると大正8年は513,414部、9年は602,408部、10年は686,539部、11年は824,941部である。</ref>、大阪朝日新聞の大正10年上半期の平均実売部数は約48万部である<ref>山本武利『近代日本の新聞読者層』(1981年、法政大学出版局)p410~411の「別表4 『朝日新聞』の発行部数(1日)」による。勘定報告書(営業報告書)の決算上半期の平均実売部数で、大正8年は384,242部、9年は396,501部、10年は483,557部、11年は584,222部である。</ref>。)


紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。<ref name="B195401c2352">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2352|新聞の論調}}」</ref>
紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。<ref name="B195401c2352">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2352|新聞の論調}}」</ref>
54行目: 54行目:
** {{obc|B195401c2354|抵抗と閉社}}
** {{obc|B195401c2354|抵抗と閉社}}
* {{pid|2933374/1/100|新聞史話 : 生態と興亡}}p.192「大正日日新聞」、内川芳美・著、昭和42年(1967年)、社会思想社
* {{pid|2933374/1/100|新聞史話 : 生態と興亡}}p.192「大正日日新聞」、内川芳美・著、昭和42年(1967年)、社会思想社
* [https://www.sagalibdb.jp/komonjo/detail?id=42452 大正日日新聞創刊時の広告] - 佐賀県立図書館データベース


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
71行目: 72行目:


{{デフォルトソート:たいしようにちにちしんふんしや}}
{{デフォルトソート:たいしようにちにちしんふんしや}}
[[Category:大正日日新聞社|*]]
[[Category:大正日日新聞]]
[[Category:企業]]
[[Category:大本の組織]]
[[Category:霊界物語の企業]]
[[Category:霊界物語の企業]]