「聖師御校正本」の版間の差分

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[[ファイル:第6巻トビラ(御校正本).jpg|thumb|||霊界物語[[第6巻]]の聖師御校正本のトビラ]]
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'''聖師御校正本'''(せいしごこうせいぼん)とは、出口王仁三郎が霊界物語の刊本にペン書きで校正を行った、その本のこと。主に昭和9年から10年にかけて校正作業が行われた。単に「校正本」「御校正本」とも呼ばれる。刊本の「校定版」とは異なる。
'''聖師御校正本'''(せいしごこうせいぼん)とは、出口王仁三郎が霊界物語の刊本にペン書きで校正を行った、その本のこと。主に昭和9年から10年にかけて校正作業が行われた。単に「校正本」「御校正本」とも呼ばれる。刊本の「校定版」とは異なる。
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校正作業は1つの巻に対して数回行われた場合もある。たとえば[[第6巻]](昭和7年7月15日発行の三版を使用)の最初の校正は昭和9年4月9日、最後の校正は昭和10年2月17日である。
校正作業は1つの巻に対して数回行われた場合もある。たとえば[[第6巻]](昭和7年7月15日発行の三版を使用)の最初の校正は昭和9年4月9日、最後の校正は昭和10年2月17日である。


[[天祥地瑞]]は最初から校正された状態で出版されたため、校正本はない。また[[入蒙記]]は[[出口王仁三郎全集]]に収録されたものを第二次大戦後に霊界物語に収録したので、やはり校正本はない。つまり第1巻から第72巻までの72冊の校正本があったようである。
[[天祥地瑞]]は最初から校正された状態で出版されたため、校正本はない。また[[入蒙記]]は[[出口王仁三郎全集]]に収録されたものを第二次大戦後に霊界物語に収録したので、やはり校正本はない。


しかし昭和25年(1950年)12月31日午前2時半頃に[[天恩郷]]の本部事務所から出火して全焼し<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7432|梅花運動}}」</ref>、そこに保管してあった[[第1巻]]・[[第2巻]]・[[第27巻]]の校正本は焼失して現存していない<ref>[[愛善世界社版]]霊界物語第1巻p300「凡例」</ref>。
昭和25年(1950年)12月31日午前2時半頃に[[天恩郷]]の本部事務所から出火して全焼し<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7432|梅花運動}}」</ref>、そこに保管してあった[[第1巻]]・[[第2巻]]・[[第27巻]]の校正本は焼失して現存していない<ref>[[愛善世界社版]]霊界物語第1巻300頁「凡例」</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2025年3月8日 (土) 09:28時点における最新版

霊界物語第6巻の聖師御校正本のトビラ

聖師御校正本(せいしごこうせいぼん)とは、出口王仁三郎が霊界物語の刊本にペン書きで校正を行った、その本のこと。主に昭和9年から10年にかけて校正作業が行われた。単に「校正本」「御校正本」とも呼ばれる。刊本の「校定版」とは異なる。

概要

霊界物語は短期間に急ピッチで著述と出版が行われ、著者の王仁三郎による校正は行われずに出版されて行った。

筆録者が清書の際に分からない文字を王仁三郎に尋ねたり、重版の際に文字の訂正が行われることもあった[1]が、王仁三郎による本格的な校正作業は主として昭和9年から10年にかけてである。

校正作業は1つの巻に対して数回行われた場合もある。たとえば第6巻(昭和7年7月15日発行の三版を使用)の最初の校正は昭和9年4月9日、最後の校正は昭和10年2月17日である。

天祥地瑞は最初から校正された状態で出版されたため、校正本はない。また入蒙記出口王仁三郎全集に収録されたものを第二次大戦後に霊界物語に収録したので、やはり校正本はない。

昭和25年(1950年)12月31日午前2時半頃に天恩郷の本部事務所から出火して全焼し[2]、そこに保管してあった第1巻第2巻第27巻の校正本は焼失して現存していない[3]

脚注

  1. 例として「百足姫」。
  2. 大本七十年史 下巻』「梅花運動#
  3. 愛善世界社版霊界物語第1巻300頁「凡例」