「喜界島」の版間の差分

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== 外部リンク ==
 
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2024年7月30日 (火) 00:07時点における最新版

喜界島の神声歌碑

喜界島(きかいじま)は、坤の金神豊雲野尊)が隠退していた島。鹿児島県の奄美諸島にある。

概要

島名の由来

裏鬼門の金神が隠れた島だから鬼界ケ島と呼ばれるようになったと王仁三郎は述べている。

 喜界ケ島は、その昔は鬼ケ島とも鬼界ケ島とも称えられていたが、明治になって島名を現今の如く喜界ケ島と改められた。喜界ケ島には宮原山と云う小さき丘があり、神島の如く一本の老松が金字形に山頂に立っている。島人はこれを金字松という。この宮原山は島人より神の山、霊地と畏れられて、足を入れるものが今にないのである。坤の金神が、パレスチナや神島に隠れられた如く、この坤なる喜界ケ島にもかくれておられたのだ。裏鬼門の金神の隠れ島だから、鬼ケ島または鬼界ケ島と称えられたのであった。
出典:『出口王仁三郎全集 第5巻』「松の露#」、初出:『明光』昭和3年4月号

巡教

昭和2年(1927年)12月、王仁三郎は台湾を巡教したが、その帰途、沖縄や奄美を回った。昭和3年1月4日、奄美大島に着き、1月14日に喜界島の宮原山に登山した。その際に、坤の金神は喜界島に押し込まれていたと語った。

 帰途、聖師の一行は一二月三一日那覇にむかい、沖縄支部渡嘉敷唯良宅で一九二八(昭和三)年の新春をむかえて、一月四日には、奄美大島に着いた。この地方は、特派されていた山口利隆夫妻の努力によって、教勢の発展もめざましいものがある。本島では名瀬・古仁屋のほか数ヵ所で巡教し、各地で歓迎をうけたが、とくに、喜界島では全島あげての歓迎であった。

 喜界島においては、分所の砂泊兼照邸を宿にして一五〇〇人に面会し、一月一四日にいたって聖師は宮原山に登山した。宮原山は坂嶺小学校背後の小山で、ふるくから神山とよばれていたところである。そこは、浜挫・ヨモン木・シダラ・トベラなどが繁茂しており、村人も神罰をおそれて斧を入れたことがないという神境であった。そして中央には巨大な松の樹があり、枝葉がしげって金字ににておるので、村人によって金字松と称されていた。山口特派などはここに伊都能売の神の宝座をつくることにし、かねて石をつみ重ねておいた。この地にたった聖師は「坤の金神の分霊は綾部から坤にあたる神島と日本の坤に位置するこの喜界島に押問し込まれていたのである」と語られたという。一行は一月二一日鹿児島に上陸し、九州別院・熊本・宮崎などをへて一月三一日亀岡に帰着した。
出典:『大本七十年史 上巻』「暁天の機運#

歌碑

昭和7年(1932年)12月19日、宮原山に王仁三郎の歌碑「神声歌碑」が建立された。この日、王仁三郎は松江に巡教しており[1]、奄美大島を巡教していた出口日出麿が聖師名代として歌碑除幕式に臨席した。[2]

霊界物語での喜界島

霊界物語には「鬼界ケ島」の名で第23巻第13章捨小舟#に1回だけ出る。(東助の追分節)「後に残りしお二人の、高姫さまや貫州は、鬼界ケ島の俊寛か。どうして月日を送るやら」

「鬼界ケ島の俊寛」とは、俊寛(平安時代の僧侶)が鬼界ヶ島に流刑された故事を指している。ただし流刑地としての鬼界ヶ島の比定地は、喜界島だけでなく、薩南諸島の硫黄島もある。

脚注

  1. 『大本年表』
  2. 大本七十年史 下巻』「日出麿師の宣教と教化#

関連項目

外部リンク