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* 明治以前は、天台宗に所属する帝釈寺霊山寺(れいせんじ)戒光院と号し、地蔵菩薩を本尊としていた。また熊山権現と称し、神社の別当寺でもあった。明治6年に神仏を分離し、寺院を廃止して(山麓に移された)、熊山神社と改称した。<ref>{{pid|766414/1/58|和気郡誌}}、明治42年(1909年)発行、83頁・487頁</ref> <ref>{{pid|2476743/1/31|岡山県の文化財 第1集}}、昭和32年(1957年)発行、55頁</ref>
 
* 明治以前は、天台宗に所属する帝釈寺霊山寺(れいせんじ)戒光院と号し、地蔵菩薩を本尊としていた。また熊山権現と称し、神社の別当寺でもあった。明治6年に神仏を分離し、寺院を廃止して(山麓に移された)、熊山神社と改称した。<ref>{{pid|766414/1/58|和気郡誌}}、明治42年(1909年)発行、83頁・487頁</ref> <ref>{{pid|2476743/1/31|岡山県の文化財 第1集}}、昭和32年(1957年)発行、55頁</ref>
 
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2024年6月16日 (日) 05:07時点における最新版

熊山遺跡。
熊山遺跡。

熊山(くまやま)は、岡山県南東部にある山。標高508メートル。山頂にある熊山遺跡(熊山戒壇)は神素盞嗚大神の御陵だと出口王仁三郎は教えている。

熊山遺跡

  • 熊山遺跡は石積みの構造物である。方形の底辺は約12メートル、高さ約3.5メートルの、三段の階段状ピラミッドのような形状をしている。
  • 熊山遺跡は一般には奈良時代に造られた何らかの仏教遺跡だと言われている。鑑真が日本に来て最初に築いた戒壇(僧侶になるための戒律を授ける場)とされ、日本五戒壇の一つと言われた[1]。現在では仏塔(仏舎利を安置する塔)だと言われている。
  • 昭和31年(1956年)に国史跡に指定された。
  • 山頂が所属する自治体は合併によって変遷がある。明治初頭には和気郡奥吉原村、明治22年(1889年)和気郡熊山村、昭和28年(1953年)赤磐郡熊山町、平成17年(2005年)赤磐市。
  • 熊山遺跡 - 赤磐市
  • 熊山遺跡 - ウィキペディア

熊山神社

熊山神社。
熊山神社。
  • 明治以前は、天台宗に所属する帝釈寺霊山寺(れいせんじ)戒光院と号し、地蔵菩薩を本尊としていた。また熊山権現と称し、神社の別当寺でもあった。明治6年に神仏を分離し、寺院を廃止して(山麓に移された)、熊山神社と改称した。[2] [3]
  • 主祭神:大国主命
  • 創建年代:不詳
  • 旧社格:村社
  • 熊山神社 - 岡山県神社庁(熊山神社の公式サイトは存在しないようである)

出口王仁三郎との関わり

  • 王仁三郎月鏡の中で、熊山戒壇は素尊の御陵であると教えている。それによると、素尊は八岐大蛇を退治した後、櫛稲田姫と寿賀の宮に住んでいたが、死後に熊山に御陵が造られ遺体が納められた。大蛇を斬った十握の剣も同じところに納められている。
    • 月鏡「素尊御陵」#(初出は『神の国』昭和5年2月号)
    • 月鏡「熊山にお伴して」#加藤明子による随行録)(初出は『神の国』昭和5年6月号)
    • 月鏡「再び素尊御陵について」#(初出は『神の国』昭和5年4月号)
  • 昭和5年(1930年)5月20日(旧4月22日)、王仁三郎は九州巡教の帰途、熊山に登山し、戒壇と神社を参拝した。その時の模様は上記の月鏡に記されている。
  • 昭和9年(1934年)5月1日、熊山の麓を流れる吉井川の対岸の向山に中国別院が設置され、開院式が開かれた。

関連資料

  • 『研修資料 出口王仁三郎聖師と熊山』編集・愛善苑、発行・いづとみづ、平成2年(1990年)5月

脚注

  1. 昔も今も一般には、奈良の東大寺・太宰府の観世音寺・下野の薬師寺が「日本三戒壇」または「天下三戒壇」と言われている。「日本五戒壇の一つ」とは『和気郡誌』と王仁三郎関係の文献くらいしか書かれていないので、関係者が勝手に言っていただけの可能性がある。牧慎平・小森国嗣「霊山熊山の世に出るまで(三)」(『神の国』昭和8年3月号109頁)によると「日本五戒壇」とは大和の東大寺・比叡山の唐招提寺・下野の薬師寺・筑前の観音寺(観世音寺の誤記だと思われる)・熊山の霊山寺である。
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『和気郡誌』 PID:766414/1/58、明治42年(1909年)発行、83頁・487頁
  3. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『岡山県の文化財 第1集』 PID:2476743/1/31、昭和32年(1957年)発行、55頁