「弥勒神像」の版間の差分
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'''弥勒神像'''(みろくしんぞう)は、熊本県[[山鹿]](やまが)市の[[瑞霊苑]]にある、[[ | [[ファイル:出口王仁三郎と弥勒神像.jpg|thumb|[[出口王仁三郎]]と弥勒神像]] | ||
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'''弥勒神像'''(みろくしんぞう)は、熊本県[[山鹿]](やまが)市の[[瑞霊苑]]にある、[[出口王仁三郎]]と等身大の観音像のこと。 | |||
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不動岩に登った後、再び観音堂に入り休息した後、帰ろうとすると、観音像の胸に3寸(約9cm)ほどの月の形が現じていた<ref>『新月の光』0071「みろく最勝妙如来」には、像が動き出した瞬間に月の形が現れたと記されている。</ref>。 | 不動岩に登った後、再び観音堂に入り休息した後、帰ろうとすると、観音像の胸に3寸(約9cm)ほどの月の形が現じていた<ref>『新月の光』0071「みろく最勝妙如来」には、像が動き出した瞬間に月の形が現れたと記されている。</ref>。 | ||
〔ここまで参考文献:[[河津雄]]「西遊随行記〔四〕」『[[神の国]]』大正12年10月25日号p27-28〕 | |||
王仁三郎は「王仁がいつも観音様を描くときに見えていた観音様はこれだ」と言った<ref>[[熊本本苑]]のパンフレットによる</ref>。 | |||
== 瑞霊苑 == | == 瑞霊苑 == | ||
[[ファイル:山鹿の瑞霊苑1.jpg|thumb|瑞霊苑。左側に弥勒神像。2013年11月撮影。]] | |||
大正14年(1925年)7月3日(異説あり<ref>『[[大本年表]]』には'''7月3日'''と記載されているが、『[[新月の光]]』0071「みろく最勝妙如来」・0099「瑞霊苑と弥勒神像」には'''6月30日'''と記されている。</ref>)、王仁三郎は弥勒神像があるところを「瑞霊苑」と命名した。[[尾形太郎作]]をその祠官に任命した<ref name="kake0099">『新月の光』0099「瑞霊苑と弥勒神像」</ref>。 | 大正14年(1925年)7月3日(異説あり<ref>『[[大本年表]]』には'''7月3日'''と記載されているが、『[[新月の光]]』0071「みろく最勝妙如来」・0099「瑞霊苑と弥勒神像」には'''6月30日'''と記されている。</ref>)、王仁三郎は弥勒神像があるところを「瑞霊苑」と命名した。[[尾形太郎作]]をその祠官に任命した<ref name="kake0099">『新月の光』0099「瑞霊苑と弥勒神像」</ref>。 | ||
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昭和45年(1970年)10月25日、弥勒神像の47周年の大祭に引き続き、三代教主・[[出口直日]]が揮毫した「瑞霊苑」碑の除幕式が行われた<ref name="kake0099" />。 | 昭和45年(1970年)10月25日、弥勒神像の47周年の大祭に引き続き、三代教主・[[出口直日]]が揮毫した「瑞霊苑」碑の除幕式が行われた<ref name="kake0099" />。 | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[ミロク岩]] | * [[伊都能売観音像 (熊本)]]:[[九州別院]](現・[[熊本本苑]])内にある | ||
* [[ミロク岩]]:山鹿の不動岩 | |||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* | * {{wp|三玉村}}:昭和29年(1954年)に山鹿町など近隣自治体と合併して山鹿市となる。 | ||
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弥勒神像(みろくしんぞう)は、熊本県山鹿(やまが)市の瑞霊苑にある、出口王仁三郎と等身大の観音像のこと。
概要
大正12年(1923年)8月7日、王仁三郎は綾部を出発して熊本県の杖立温泉に向かった。8月30日まで滞在し、続いて熊本市内で2泊し、9月1日は熊本県鹿本郡山鹿町(現・山鹿市)に泊まり、翌9月2日は鹿本郡山鹿町三玉村大字蒲生(現・山鹿市蒲生)の観音堂と不動岩(後に「ミロク岩」と命名)に参拝した。
観音堂には石像の観音があり、王仁三郎が持参の「五六七の杖」で観音像の高さを測ってみると、杖の長さと同じ5尺6寸7分(約170cm)あった。像の冠を除いた高さは5尺3寸(約161cm)あった。これらは王仁三郎の身長と同一である(頭頂までが5尺3寸)。また観音像が左手に持つ蓮の実には33の波が刻まれていた。王仁三郎が像を掴んで鎮魂をかけると像は盛んに動き出した。
王仁三郎は「観音様は三十三相に身を変じて諸人を済度されたのであるが、後に最勝妙如来と出世されるという事が法華経に書いてある。最勝妙如来というのはミロクさんのこっちゃぜ」と説いた。
不動岩に登った後、再び観音堂に入り休息した後、帰ろうとすると、観音像の胸に3寸(約9cm)ほどの月の形が現じていた[1]。
〔ここまで参考文献:河津雄「西遊随行記〔四〕」『神の国』大正12年10月25日号p27-28〕
王仁三郎は「王仁がいつも観音様を描くときに見えていた観音様はこれだ」と言った[2]。
瑞霊苑

大正14年(1925年)7月3日(異説あり[3])、王仁三郎は弥勒神像があるところを「瑞霊苑」と命名した。尾形太郎作をその祠官に任命した[4]。
「神像は霊界物語第2巻に示された美山彦命の造りし神岩(ミロク岩)に向かい合うように鎮祭せよ」と王仁三郎は命じ、大正13年(1924年)3月3日に鎮祭された[4]。
昭和45年(1970年)10月25日、弥勒神像の47周年の大祭に引き続き、三代教主・出口直日が揮毫した「瑞霊苑」碑の除幕式が行われた[4]。
関連項目
- 伊都能売観音像 (熊本):九州別院(現・熊本本苑)内にある
- ミロク岩:山鹿の不動岩