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出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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2024年11月29日 (金) 19:33時点における最新版

守高(もりたか)は、植芝盛平の別名。

王仁三郎蒙古入りに同行した植芝は、「王守高」という中国名を名乗った。[1]

入蒙記でも、植芝は「守高」という名で登場する。(初出:入蒙記第1章水火訓#:「身魂にみたし真澄別 名田彦守高両人を」) →詳細は「王守高」を見よ

また蒙古から帰った後も「植芝守高」という名を使っていた時期がある。「植芝守高」名義で武道解説書を書いたり、他人が書いた本に「植芝守高」という名で紹介されたこともある。

似た名前の人物

脚注

  1. 大本七十年史 上巻』「奉天での準備#」:「いよいよ蒙古にむかう準備ができ、日本人側の人々もすべて中国名に変名し、中国服を着用した。王仁三郎は王文祥、松村は王文真、植芝は王守高、名田は超徹、岡崎は侯成勲、大石良は石大良、萩原は王敏明、佐々木は王昌輝、そして矢野は王天海をそれぞれに名のったのである。また王仁三郎はみずからダライラマを称し、松村をパンチェンラマとなのらせて、「大本ラマ教」がつくりあげられた」

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