「山水荘 (旧)」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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2018年11月14日 (水) 03:32時点における版

この項目では、昔の山水荘について説明しています。現代の山水荘については「山水荘 (新)」をご覧ください。

山水荘(さんすいそう)は、大本の建物で、綾部市寺町植松にあった。

昭和17年(1942年)8月7日に保釈された王仁三郎夫妻は、亀岡の中矢田農園内に住んでいたが、綾部町の有力者たちが綾部に居住して欲しいと願い出て、居宅の斡旋に奔走した。その結果、植松にある永井所有の土地と二階建ての家屋を、昭和20年(1945年)3月15日に買収した。[1]

この建物は(当初は臨川荘と呼ばれていた?)昭和20年12月8日に「山水荘」と命名された。[2]

王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日に昇天したが、葬儀のため1月29日深夜から霊柩車が亀岡から徒歩で綾部の彰徳殿にに運ばれる途中、30日午後3時30分頃、山水荘前に到着し、霊璽が神前に安置され、20分後に再び彰徳殿に向かった。[3]

昭和30年(1955年)4月15日、山水荘の建物は梅松苑内の要荘の北側に移築され「掬水荘」と命名され、綾部における教主の住居とされた。[4]

脚注

  1. 大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#
  2. 大本七十年史 下巻』「新生のまつり#」:「またこの日、綾部の神苑を梅松苑、聖師夫妻の起居する臨川荘を山水荘、もとの武徳殿を彰徳殿と命名されたことが一般に発表された」
  3. 大本七十年史 下巻』「告別式と遷柩#
  4. 大本七十年史 下巻』「造営#