「万祥殿 (旧)」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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2018年11月9日 (金) 22:59時点における版

この項目では、昭和7年に造営が始まった万祥殿について説明しています。その他の用法については「万祥殿 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

万祥殿(ばんしょうでん)は、亀岡天恩郷にあった神殿。

概要

  • 万祥殿は天恩郷の北部、現在の花明山植物園の温室がある辺りを敷地として、昭和7年(1932年)から建設が始まった。屋根の高さ18メートル、総銅葺き。総建坪555.5坪で、広前は1000畳敷きという大きな建物で、広前の3分の1は畳席、3分の2は椅子席とする構想だった。[1]
  • 王仁三郎は「花明山に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いだが[2]、基礎工事が終わったところで未完成のまま第二次大本事件を迎えた。

略年表

  • 昭和7年(1932年)2月16日、地鎮祭。[1] [3]
  • 昭和8年(1933年)8月5日、地鎮祭?[3] [4]
  • 万祥殿の建設はその後進捗せず、昭和8年2月には万祥殿完成促進委員が任命され促進が図られ、また11月の秋の大祭では参拝者によって砂利運び等の作業が行われ、昭和9年中に完成する予定だった。[1]
  • 昭和10年(1935年)6月5日、斧始祭。[3]
  • 同年8月、まだ未完成の万祥殿の敷地に天幕を張り、聖師聖誕祭が行われた。(この年の10月には綾部の、やはり未完成の長生殿の敷地内で、大本大祭や開祖祭が行われた。それまでは綾部・五六七殿と亀岡・大祥殿で大祭が行われていたが、この年から長生殿と万祥殿で行われることになった)[1] [5]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 『大本七十年史 下巻』「神苑の造営と祭事#
  2. 『大本七十年史 下巻』「造営#
  3. 3.0 3.1 3.2 『大本年表』
  4. 『大本年表』に何故か昭和7/2/16と8/8/5の2回「地鎮祭」が記されている。
  5. 『大本年表』には次のように記されている。「8・10 聖師聖誕祭。8・11 万祥殿祭典。大祭五、六日前突然聖師より「万祥殿敷地にて祭典せよ」と言葉あり、敷地に急造の天幕を張り祭典挙行。大祥殿にて聖師脚色演出の第一回神聖歌劇を公演。聖師は天之峰火夫の神に扮して出演。三幕四場。」