「十曜の神紋」の版間の差分
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もともと大本では神紋として九曜紋を用いていた。明治25年(1892年)2月の開教以降、具体的にいつから九曜紋を使い出したのかは分からない。出口家の定紋は抱き茗荷(だきみょうが)であり、九曜紋は[[綾部藩]]主の[[九鬼家]]の家紋である。<ref name="B195401c1522">『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1522|十曜の神紋}}」</ref> | もともと大本では神紋として九曜紋を用いていた。明治25年(1892年)2月の開教以降、具体的にいつから九曜紋を使い出したのかは分からない。出口家の定紋は抱き茗荷(だきみょうが)であり、九曜紋は[[綾部藩]]主の[[九鬼家]]の家紋である。<ref name="B195401c1522">『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1522|十曜の神紋}}」</ref> | ||
2025年12月12日 (金) 17:12時点における版

十曜の神紋(とようのしんもん)は、大本で用いている神紋。
概要
- 十曜の神紋の現界的由来は、明治32年(1899年)に祭典のために提灯屋に発注した提灯が、九曜紋で注文したにもかかわらず、何故か十曜紋で作られてしまったことに始まる。→「#由来」
- 神界的な由来としては、天の数歌に則って作られたと霊界物語第13巻総説#に記されている。→「#天の数歌」
- また天祥地瑞には、⦿を十個並べた神紋が登場する。→「#葦原の国土の標章」
- 伊都能売神諭には、十曜の神紋は「世界統一の標章」だと記されている。→「#世界統一の標章」
- 大本で使われている十曜の神旗は白地に赤色で神紋が染められている。宗教法人愛善苑では霊界物語第13巻総説#に記された、十色に彩色された神旗が使われている。→「#彩色された神紋」
- 王仁三郎は、十字を変形したのが十曜紋だと言っている。[1]
- 大正期に、天恩郷に十曜型の花壇が造られた。[2]
- 霊界物語には、三五教の神紋として「十曜の神紋」や「十曜の神旗」がたびたび登場する。
由来



もともと大本では神紋として九曜紋を用いていた。明治25年(1892年)2月の開教以降、具体的にいつから九曜紋を使い出したのかは分からない。出口家の定紋は抱き茗荷(だきみょうが)であり、九曜紋は綾部藩主の九鬼家の家紋である。[3]
明治32年(1899年)7月10日(旧6月3日)大本の広前を、裏町の土蔵の二階から、本町の中村竹蔵の家へ遷し、金明会の本部とした。その遷座祭の祭典用に高張提灯(長い竿の先に大型の提灯を取り付けたもの)を注文したが、九曜紋を指定したはずなのに、何故か十曜紋で作られていた。[3]
これについて早速次のような筆先が出た。〈上田喜三郎どの大もうなお世話ようできたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、九曜の紋を一つふやしたのは都合のあることざぞよ。〉[4]。これによって大本の神紋が十曜紋に定まった。また後に裏紋は丸に十の「㊉」に定められた。[3]
開祖出口直は十曜の神紋の意義について、今までは九曜だったが王仁三郎を加えて十曜になった、と教えている。ただしそれ以外にもいろいろな意義があると言っている。[5] [6]。(明治32年7月3日、上田喜三郎の二度目の参綾・大本入り。7月10日、金明会設立・十曜紋が神紋に定まる。7月30日、喜三郎を世継ぎとする筆先が出る。8月1日、金明霊学会設立)
王仁三郎自身も〈十曜の神紋に就ては、種々の意味が包まれて在つて一々之を説明せむとすれば、到底百頁や二百頁では充分に徹底的に説く事は出来ませぬ〉と述べている。[7]
世界統一の標章
伊都能売神諭で、十曜の神紋は「世界統一の標章」だと示されている。
「九つ花が十曜に開く」とは、王仁三郎が五六七大神として顕現することを指していると思われる。
葦原の国土の標章

天祥地瑞に、十曜の神紋の原型と言える、十個の⦿(ス)を並べたマークが示されている。
第78巻第16章「天降地上」#で朝香比女の神が、葦原比女の神に対して、「葦原の国土の標章」として与えたマークである。
『天の時 地の時到りて葦原の 国土《くに》の光は現はれにけり
葦原の国土の標章《しるし》と今日よりは ⦿の玉の旗を翻しませ
⦿の玉を並べ足らはし十《たり》と為し 真言《まこと》の国土の標章《しるし》と定めよ』
葦原比女の神は御歌詠ませ給ふ。
『有難し国土の始めの旗標《はたじるし》まで 賜ひし公《きみ》の功は貴し
万世に吾は伝へてこの旗を 国土の生命と祀らせまつらむ
(以下省略)十個の⦿をどのように並べるのかは明記されていない。だが、この章の後の第78巻第18章「神嘉言」#・第78巻第19章「春野の御行」#では、「十曜」(十曜の神旗)と呼ばれているので、この⦿を十球並べた紋章が、後の十曜の神紋の原型だと考えることができる。
このマークは出口恒が平成29年(2017年)に商標登録している。「登録6000315」(J-PlatPat)。
天の数歌
霊界物語第13巻総説#[8]に「(一)神旗の由来」と題して、十曜の神紋が天の数歌に則っているものだということが書かれている。(神紋を旗にあしらったものが神旗であるが、この「総説」では神紋と神旗を同じものとして解説している)
十曜の神紋を「色」「数」「神統」という3つの角度から解説されている。それをまとめると次のようになる。
| 球の順序 | 色 | 数 | 神統 |
|---|---|---|---|
| 第一球 | 卵色[9] | 霊(ひ) | 天之御中主大神 |
| 第二球 | 白 | 力 | 高皇産霊大神・神皇産霊大神 |
| 第三球 | 黒 | 体(み) | 国常立尊・伊弉那岐大神・伊弉那美大神 |
| 第四球 | 赤 | 世 | 天照大御神 |
| 第五球 | 橙 | 出(いつ) | 素盞嗚尊 |
| 第六球 | 黄 | 萌 | 吾勝尊 |
| 第七球 | 緑 | 生成(なな) | 二二岐尊 |
| 第八球 | 青 | 弥 | 神武天皇 |
| 第九球 | 藍 | 凝 | 今上天皇 |
| 第十球 | 紫 | 足 | 大本皇大御神 |
彩色された神紋

大本で使われる十曜の神旗は通常、白地に赤色で神紋が染められる。
宗教法人愛善苑では、前述の配色で彩色された十曜の神紋を使用している。平成2年(1990年)12月にある会員が、手作りした十色の十曜の神旗を愛善苑に奉納した[10]。それ以降、愛善苑では十色の神旗を用いている。平成26年(2014年)に商標登録した。「登録5649697」(J-PlatPat)。
球の配置
第一球については〈正上に位し〉、第十球については〈正中の一大球を十と為したる〉と明記されているので、その位置は明確である。しかし第二球から第九球については、どの位置に配されるのか、明記されていないため、解釈の余地がある。
また、〈万色の本は黒白の二色にして、二色を統一するものは卵色なり〉と記されているため、第一球の左右に第二球(白)と第三球(黒)を配置するのが妥当と思われるが、左右のどちらを第二球・第三球にするかは、解釈の余地がある。
前述の宗教法人愛善苑が商標登録した十曜の神紋は、第二球(白)が第一球の右に、第三球(黒)が左に配置され、第四球(赤)以下が右回り(時計回り)に配置されている。
関連項目
- 宇宙紋章:井上留五郎『暁の烏』「(四)新定の紋章#」:〈この宇宙紋章が出来ることは、明治三十二年十曜の神紋が出来た当時、開祖様より大本役員に向かって、つとに予告せられていたのでありまして「大本には後来、さらに新たな紋が出来る。その紋はミロク神政成就のしるしであるから、この時を境として大本は云うに言われぬ結構なことに代わってくる」とお告げになったのであります。〉
外部リンク
脚注
- ↑ 『新月の光』0212「長生殿」:〈大本も十の字でありますがまるの十字であるのを、くづして十曜の紋にして○を十拵へたのであります。裏紋としては○に十を大本は使うて居るのであります。〉
- ↑ 水鏡「天国霊国と花壇」#:〈未信者の設計になつた天恩郷の花壇の形が、十曜の神紋であつた時に、私はいよいよ時節進展と喜んだ。綾部の神苑にも花壇が出来るやうにならねば天国は開けぬのである。〉
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『大本七十年史 上巻』「十曜の神紋#」
- ↑ これは大本神諭 明治32年旧6月3日#の一部である。
- ↑ 四方平蔵「聖師様御参綾と十曜の神紋#」
- ↑ 『聖師伝』「聖師の大本入り#」
- ↑ 『神霊界』大正8年(1919年)9月15日号「大本言霊解#」
- ↑ 第13巻総説は、『神霊界』大正10年(1921年)1月号p72「八面六峰」(著者名は「王仁」)内の「日本の光明」「皇道大本十曜神旗の由来」「霊力体」を再録したものである。
- ↑ 〈宇宙の大本たる渾沌雞子の色〉
- ↑ 『神の国 (愛善苑)』平成3年(1991年)3月号、24頁