「神島開き」の版間の差分

 
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== 一度目の参拝 ==
== 一度目の参拝 ==
[[ファイル:坤の金神に扮した出口王仁三郎.jpg|thumb|坤の金神に扮した出口王仁三郎]]
大正5年(1916年)のある春の夜、[[王仁三郎]]の霊眼に、坤の方面の沖合に炮烙(ほうらく)<ref>炮烙(ほうらく、ほうろく)とは「素焼きの平たい土鍋」〔広辞苑〕のこと。</ref>を伏せたような島が見えた。それ以降、左の歯茎の上の辺りが痛み出し、48日目にそこから一つの舎利(骨)が出て来た。それは霊眼で見た島の形そのものであった。その島を探すよう信者に命じたところ、兵庫県の高砂沖にある上島がそれであろうという報告があった。その島は後に大本では「神島」と呼ばれることになる。→島の詳細は「[[神島]]」を見よ
大正5年(1916年)のある春の夜、[[王仁三郎]]の霊眼に、坤の方面の沖合に炮烙(ほうらく)<ref>炮烙(ほうらく、ほうろく)とは「素焼きの平たい土鍋」〔広辞苑〕のこと。</ref>を伏せたような島が見えた。それ以降、左の歯茎の上の辺りが痛み出し、48日目にそこから一つの舎利(骨)が出て来た。それは霊眼で見た島の形そのものであった。その島を探すよう信者に命じたところ、兵庫県の高砂沖にある上島がそれであろうという報告があった。その島は後に大本では「神島」と呼ばれることになる。→島の詳細は「[[神島]]」を見よ


王仁三郎の霊覚では、その島に[[坤の金神]]の分霊が鎮まっているという。その神霊を迎えるために、6月25日(旧5月25日)王仁三郎は[[直日]]・[[大二]]ら一行60人と共に鉄道で高砂浦(たかさごうら)<ref>播州鉄道の駅。大正3年開業。その後、高砂港駅と改称し、昭和59年(1984年)に廃止。{{wp|高砂港駅}}</ref>に向かった。出発した頃から雨が降り出していたが、高砂に着いた頃には激しくなり風も吹き始めていたため、出船が危ぶまれた。王仁三郎は坤の金神として女装をし、準備が整った頃には風雨は収まった。一行は3隻の船に分乗して神島に向かった。
王仁三郎の霊覚では、その島に[[坤の金神]]の分霊が鎮まっているという。その神霊を迎えるために、6月25日(旧5月25日)王仁三郎は[[直日]]・[[大二]]ら一行60人と共に鉄道で高砂浦(たかさごうら)<ref>播州鉄道の駅。大正3年開業。その後、高砂港駅と改称し、昭和59年(1984年)に廃止。{{wp|高砂港駅}}</ref>に向かった。出発した頃から雨が降り出していたが、高砂に着いた頃には激しくなり風も吹き始めていたため、出船が危ぶまれた。王仁三郎は'''坤の金神として女装をし'''、準備が整った頃には風雨は収まった。一行は3隻の船に分乗して神島に向かった。


一行は王仁三郎を先頭に、6尺あまりの矢竹の茂みを切り開きながら進み、300mほど上がった平面の地を斎場にした。王仁三郎は弓矢で、艮と坤の空に向かって射る型をして四方を祓い、鎮魂の神事を行った。持参して来た祠で神島の大神(坤の金神)の鎮祭をし、その神祠を捧持して島を離れた。
一行は王仁三郎を先頭に、6尺あまりの矢竹の茂みを切り開きながら進み、300mほど上がった平面の地を斎場にした。王仁三郎は弓矢で、艮と坤の空に向かって射る型をして四方を祓い、鎮魂の神事を行った。持参して来た祠で神島の大神(坤の金神)の鎮祭をし、その神祠を捧持して島を離れた。


28日に帰綾し、[[竜宮館]]に神島の大神を奉迎した。こうして神島が開かれたが、その意義は艮の金神と坤の金神との対面にあると解され、[[出口直]]と王仁三郎との間に祝盃があった。
28日に帰綾し、[[竜宮館]]に神島の大神を奉迎した。こうして神島が開かれたが、その意義は艮の金神と坤の金神との対面にあると解された。
 
同日午後、王仁三郎は'''再び女神に扮して'''出口直の前に現れ、直([[艮の金神]])と王仁三郎([[坤の金神]])は神霊の夫婦対面の喜びをこめて祝いの盃を交わした<ref>『大地の母 第11巻』「神島開き」</ref>。


== 二度目の参拝 ==
== 二度目の参拝 ==
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== 三度目の参拝 ==
== 三度目の参拝 ==
[[ファイル:神島参拝(大正5年10月5日).jpg|thumb|神島参拝。大正5年10月5日(旧9月9日)撮影。]]
[[ファイル:神島参拝(大正5年10月5日).jpg|thumb|三度目の神島参拝。大正5年10月5日(旧9月9日)撮影。]]


10月4日(旧9月8日)、[[出口直]]、[[王仁三郎]]、[[澄子]]、[[直日]]ほか出口家全員で神島に向かった。途中で各地からの参拝者も加わり、一行は百数十人となった。翌10月5日(旧9月9日)一行は9隻の船に分乗して神島に渡った。新しく造った神祠で坤の金神の鎮座祭を行い、王仁三郎は剣で大祓いの神事を執行した。このとき、王仁三郎の娘の[[一二三]](4歳)と[[尚江]](1歳)が、無心に松の枝でその辺りを掃き出し、自ら尉と姥の型をさせられた。一行は7日夜に帰綾した。
10月4日(旧9月8日)、[[出口直]]、[[王仁三郎]]、[[澄子]]、[[直日]]ほか出口家全員で神島に向かった。途中で各地からの参拝者も加わり、一行は百数十人となった。翌10月5日(旧9月9日)一行は9隻の船に分乗して神島に渡った。新しく造った神祠で坤の金神の鎮座祭を行い、王仁三郎は剣で大祓いの神事を執行した。このとき、王仁三郎の娘の[[一二三]](4歳)と[[尚江]](1歳)が、無心に松の枝でその辺りを掃き出し、自ら尉と姥の型をさせられた。一行は7日夜に帰綾した。
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{{デフォルトソート:かみしまひらき}}
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[[Category:出来事]]
[[Category:出来事]]
[[Category:神島]]
[[Category:9月8日]]
[[Category:9月8日]]