「浅野和三郎」の版間の差分

ページの作成:「'''浅野和三郎'''(あさの わさぶろう、1874~1937年)は、大本の大幹部。海軍機関学校の英語教官だったが、大本に出会い入信。機関誌『神霊界』主筆兼編集長、大日本修斎会総裁、大正日日新聞社社長などを務める。第一次大本事件で検挙・起訴され、離教。その後は心霊研究に邁進し、日本の心霊主義運動の大家となる。筆名・'''馮…」
 
 
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* 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。
* 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。
* 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。
* 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。
* 大正5年(1916年)初参綾。年末に綾部に移住。(42歳)
* 大正5年(1916年)初[[参綾]]。年末に綾部に移住。(42歳)
* 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。
* 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。
* 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。
* 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。
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* 長男・勝良:明治34年(1901年)生誕
* 長男・勝良:明治34年(1901年)生誕
* 次男・新樹:明治37年(1904年)生誕
* 二男・新樹:明治37年(1904年)生誕
* 三男・三郎:明治40年(1907年)生誕
* 三男・三郎:明治40年(1907年)生誕
* 長女・美智子:大正7年(1918年)生誕
* 長女・美智子:大正7年(1918年)生誕
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【神秘現象との出会い】
【神秘現象との出会い】


明治の終わり頃<ref>『出廬』21頁に〈今の中島機関中将がまだ大佐級の時代であった〉と記されている。中島与曽八(最終階級は中将)が大佐だったのは明治38~45年なので、その頃のことだと思われる。</ref>、中島与曽八・海軍機関大佐が家族や女中を被験者にして催眠術の実験をさかんに行っていた。浅野は実験を見学し、なぜ催眠現象が生じるのか疑問を抱くようになる。<ref>『出廬』21~25頁</ref>
明治の終わり頃<ref>『出廬』21頁に〈今の中島機関中将がまだ大佐級の時代であった〉と記されている。中島与曽八(最終階級は中将)が大佐だったのは明治38~45年なので、その頃のことだと思われる。</ref>、中島与曽八・海軍機関大佐<ref>{{wp|中島與曽八}}</ref>が家族や女中を被験者にして催眠術の実験をさかんに行っていた。浅野は実験を見学し、なぜ催眠現象が生じるのか疑問を抱くようになる。<ref>『出廬』21~25頁</ref>


大正4年(1915年)春、三男の三郎が謎の発熱を起こす。体温は37度3~4分で、午前10時頃になると発熱し、日暮れには熱が下がる。そういう怪現象が連日続き、半年も続いた。10月初旬、妻が浅野に内証で行者に頼んで三郎の祈祷をしてもらったと告白をする。その行者は米ヶ浜祖師堂(横須賀市深田台にある竜本寺)の近くで「孝信教会」という看板を掲げている「石井ふゆ」という女行者で、通称「三峰山」と呼ばれており、祈祷がよく効き、透視もできるということだった。浅野は妻から告白され、そんな加持祈祷のような迷信に頼ることを不快に感じた。しかし妻に「調べていただけませんか」と頼まれ、三峰山に行ってみることにした。
大正4年(1915年)春、三男の三郎が謎の発熱を起こす。体温は37度3~4分で、午前10時頃になると発熱し、日暮れには熱が下がる。そういう怪現象が連日続き、半年も続いた。10月初旬、妻が浅野に内証で行者に頼んで三郎の祈祷をしてもらったと告白をする。その行者は米ヶ浜祖師堂(横須賀市深田台にある竜本寺<ref>{{wp|竜本寺}}</ref>)の近くで「孝信教会」という看板を掲げている「石井ふゆ」という女行者で、通称「三峰山」と呼ばれており、祈祷がよく効き、透視もできるということだった。浅野は妻から告白され、そんな加持祈祷のような迷信に頼ることを不快に感じた。しかし妻に「調べていただけませんか」と頼まれ、三峰山に行ってみることにした。


浅野が教会(宗教団体)のようなところへ行ったのはこれが生まれて初めてであった。浅野は女行者に、三郎の病気は11月4日に平癒すると言われた。この行者の能力を調べるため透視実験を頼んだところ、透視が適中したため驚いた。三郎の発熱は11月4日には起きず、それ以降全く病気は治り、女行者の言った通りになった。このとき浅野は『有難い』『嬉しい』『不思議だ』という三つの感情が入り混じった気持ちだった。<ref>『出廬』28~46頁。『神の罠』102頁~</ref>
浅野が教会(宗教団体)のようなところへ行ったのはこれが生まれて初めてであった。浅野は女行者に、三郎の病気は11月4日に平癒すると言われた。この行者の能力を調べるため透視実験を頼んだところ、透視が適中したため驚いた。三郎の発熱は11月4日には起きず、それ以降全く病気は治り、女行者の言った通りになった。このとき浅野は『有難い』『嬉しい』『不思議だ』という三つの感情が入り混じった気持ちだった。<ref>『出廬』28~46頁。『神の罠』102頁~</ref>
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4月下旬、王仁三郎を迎えるため妻と長男を綾部に行かせる。4月28日、妻・長男と共に王仁三郎が横須賀にやって来た<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2132|浅野の入信}}」では、4月28日に王仁三郎は「浅野夫妻」らと綾部を出発し横須賀にやって来たと記されているが、間違いであろう。『出廬』({{obc|B142400c25|2-8}}83頁)によると妻・長男と共に王仁三郎は綾部を発ち横須賀に来た。</ref>。以降、浅野は母屋から離れた書斎を王仁三郎の居間として使ってもらい、人を集めて教えの勉強や、[[鎮魂帰神]]の実習を行う。この鎮魂帰神の修業が〈これが自分にとりてもまた大本に取りても、一大転換期を画すべき重大事件であったとは後に至りて思ひ知られた〉<ref>『出廬』85頁</ref>。
4月下旬、王仁三郎を迎えるため妻と長男を綾部に行かせる。4月28日、妻・長男と共に王仁三郎が横須賀にやって来た<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2132|浅野の入信}}」では、4月28日に王仁三郎は「浅野夫妻」らと綾部を出発し横須賀にやって来たと記されているが、間違いであろう。『出廬』({{obc|B142400c25|2-8}}83頁)によると妻・長男と共に王仁三郎は綾部を発ち横須賀に来た。</ref>。以降、浅野は母屋から離れた書斎を王仁三郎の居間として使ってもらい、人を集めて教えの勉強や、[[鎮魂帰神]]の実習を行う。この鎮魂帰神の修業が〈これが自分にとりてもまた大本に取りても、一大転換期を画すべき重大事件であったとは後に至りて思ひ知られた〉<ref>『出廬』85頁</ref>。


王仁三郎が横須賀に滞在して4日目、走水神社(横須賀市走水。日本武尊と弟橘媛を鎮祭)に一同で参拝。ここで鎮魂中に[[村野滝州]](綾部から王仁三郎と共に横須賀にやって来た信者)の天眼に、先ほど拾った石笛は「木花咲耶姫尊の命により小桜姫これを浅野に授く」、という文字が見えた。その晩、自宅の書斎(王仁三郎の居間)で人が集まり鎮魂していると、浅野の妻・多慶子が神がかりし「小桜姫」と口を切った。〈さては小桜姫とは妻の守護神であったのか〉<ref>『出廬』112頁</ref>。<ref>『出廬』80~114頁。『神の罠』117頁~</ref>
王仁三郎が横須賀に滞在して4日目、走水神社(横須賀市走水。日本武尊と弟橘媛を鎮祭)<ref>{{wp|走水神社 (横須賀市)}}</ref>に一同で参拝。ここで鎮魂中に[[村野滝州]](綾部から王仁三郎と共に横須賀にやって来た信者)の天眼に、先ほど拾った石笛は「木花咲耶姫尊の命により小桜姫これを浅野に授く」、という文字が見えた。その晩、自宅の書斎(王仁三郎の居間)で人が集まり鎮魂していると、浅野の妻・多慶子が神がかりし「小桜姫」と口を切った。〈さては小桜姫とは妻の守護神であったのか〉<ref>『出廬』112頁</ref>。<ref>『出廬』80~114頁。『神の罠』117頁~</ref>


5月初旬に王仁三郎は村野と共に横須賀を発ち西へ帰った<ref>『出廬』122頁</ref> <ref>「[[大本年表]]」には大正5年4月28日「聖師、横須賀、東京へ巡教」。5月9日「聖師、大阪へ巡教」と記されている。</ref>。まだ修業の身の浅野たちを置き去りにして王仁三郎が帰ったのは神の試練であり、〈言はば自力で立て、自力で学べ、自力で悟れ、他にたよるなといふ事の、実地教育を施されたものであった〉<ref>『出廬』123頁</ref>。
5月初旬に王仁三郎は村野と共に横須賀を発ち西へ帰った<ref>『出廬』122頁</ref> <ref>「[[大本年表]]」には大正5年4月28日「聖師、横須賀、東京へ巡教」。5月9日「聖師、大阪へ巡教」と記されている。</ref>。まだ修業の身の浅野たちを置き去りにして王仁三郎が帰ったのは神の試練であり、〈言はば自力で立て、自力で学べ、自力で悟れ、他にたよるなといふ事の、実地教育を施されたものであった〉<ref>『出廬』123頁</ref>。
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浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。
浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。


11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。
11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。<ref name="srk19170201">『神霊界』大正6年(1917年)2月1日号、27頁、「大本通信」</ref>


12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref>
12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref> <ref name="srk19170201" />


綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。
綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。
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* 浅野は大正5年(1916年)12月11日、横須賀から綾部に移住し<ref>「綾部を去る」</ref>、14年7月11日に綾部を去ったので、綾部に住んでいたのは8年7ヶ月ということになる。ただしその間ずっと綾部に住んでいたのではなく、9~10年頃は大阪に住んでいた時期もあるようである。<ref>『[[冬籠]]』87頁〈近頃は大阪方面に居を卜し、綾部に帰る機会が甚だ少いので〉、131頁〈たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた〉。</ref>
* 浅野は大正5年(1916年)12月11日、横須賀から綾部に移住し<ref>「綾部を去る」</ref>、14年7月11日に綾部を去ったので、綾部に住んでいたのは8年7ヶ月ということになる。ただしその間ずっと綾部に住んでいたのではなく、9~10年頃は大阪に住んでいた時期もあるようである。<ref>『[[冬籠]]』87頁〈近頃は大阪方面に居を卜し、綾部に帰る機会が甚だ少いので〉、131頁〈たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた〉。</ref>


昭和4年(1929年)2月28日、次男・新樹が24歳で病死する。妻の多慶子は新樹の死をきっかけに霊言(霊界通信)を行うようになり、それは『新樹の通信』や『小桜姫物語』として発表された。多慶子は夫・和三郎が死んだ後、新樹の霊に夫の幽体離脱の場面を語らせている<ref>「父の臨終を視る」という題で『新樹の通信』に収録。</ref>。<ref>『神の罠』207~216頁</ref>
昭和4年(1929年)2月28日、二男・新樹が24歳で病死する。妻の多慶子は新樹の死をきっかけに霊言(霊界通信)を行うようになり、それは『新樹の通信』や『小桜姫物語』として発表された。多慶子は夫・和三郎が死んだ後、新樹の霊に夫の幽体離脱の場面を語らせている<ref>「父の臨終を視る」という題で『新樹の通信』に収録。</ref>。<ref>『神の罠』207~216頁</ref>


4年12月、浅野は東京心霊科学協会(現・財団法人日本心霊科学協会)を設立。
4年12月、浅野は東京心霊科学協会(現・財団法人日本心霊科学協会)を設立。