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== 概要 == | == 概要 == |
2024年7月31日 (水) 17:35時点における版
賀露(かろ)は、鳥取県の千代川(せんだいがわ)の河口西側の地名。霊界物語に「加露ケ浜(かろがはま)」が登場する。また昭和42年に出口王仁三郎の歌碑が建立された。
概要
- 昭和12年(1937年)2月までは鳥取県気高郡(けたかぐん)賀露村(かろそん)。それ以降は鳥取市賀露町。
- 明治以前から「賀露」と呼ばれており、明治22年(1889年)10月に町村制施行によって高草郡(たかくさぐん)賀露村が誕生。明治29年(1896年)4月に高草郡と気多郡(けたぐん)が合併して気高郡となる。昭和12年(1937年)2月に鳥取市に編入され、旧村域は鳥取市賀露町となる。
- 霊界物語では「賀露」ではなく「加露」と表記され、「加露ケ浜」という地名で登場する。
- 「加露ケ浜」は第3巻附録 岩井温泉紀行歌#と第38巻第28章「金明水」#だけに出る。
- 賀露ヶ浜(霊界物語では加露ケ浜)は、世間一般には「賀露港(かろこう、かろのみなと)」と呼ばれる場合が多い。現在の鳥取港である。
- 鳥取港(旧・賀露港)はもともとは千代川の河口にあったが、平成2年(1990年)に千代川の河口と港湾を分離する工事が完了し、現在の形状になった。[1]
霊界物語での主なエピソード
明治34年(1901年)7月(旧5月)出雲火の御用で出雲大社へ向かった出口直、王仁三郎ら一行15人は、千代川を汚い舟に乗って加露ケ浜に出て、加露ケ浜から舟で三保の関に行こうとした。しかし荒天のため加露ケ浜の船問屋(雲井旅館)に泊まることにした。
旅館には伊東祐亨(いとう ゆうきょう/すけゆき)海軍中将[2]が山陰沿海視察のため泊まっており、出口直は筆先を一枚書き宿屋の主人を通して伊東中将に、よく調べてくれと渡したが、その後何の返答もなかった。
王仁三郎は夜中頃に妙な夢を見た。それは際限なき原野に立っていると東から大きな太陽か月が昇り、だんだんこちらに近づき、澄子の懐へ入った夢だった。この時すでに澄子は妊娠しており、翌年3月に女の子(直日)が産まれたので、朝野に立っていた夢を思い出し「朝野(あさの)」と名付けた。
結局7月6日から8日まで三日間逗留したが、天気が回復しないためコースを陸路に変更し、10里ほど歩き、鳥取県東伯郡橋津村(現・湯梨浜町橋津)から舟に乗って三保の関へ向かった。〔以上第38巻第28章「金明水」#、『大本七十年史 上巻』「出雲の火のご用#」〕
霊界物語には記されていないが『大地の母』では、出口直・王仁三郎一行は賀露神社(祭神・木花咲耶姫命、他)に参拝している[3]。
一行は出雲大社に参拝し終わり、帰途は賀露は経由せず、はるか東方の浦富[4]から上陸している。
王仁三郎の歌碑
昭和42年(1967年)7月6日、賀露神社境内に王仁三郎の歌碑(史蹟歌碑とか加露ヶ浜歌碑と呼ばれる)が建立された。縦1m40cm、横2m30cmの青御影石[5]。
歌は〈海鳥《うみどり》の声かしましく賀露ケ浜のあしたになきて波の音《おと》高し〉。
歌碑の台座には次のような「建碑趣旨」が彫られている。
昭和四十二年七月六日
賀露ヶ浜大本史蹟碑建立有志関連項目
外部リンク
- 賀露村 - ウィキペディア
- 鳥取市 - ウィキペディア
- 鳥取港 - ウィキペディア
- 伊東祐亨 - ウィキペディア
- 賀露神社(公式サイト)
- なつかしい賀露の風景:賀露神社公式サイト内。戦前の賀露の写真が多数あり。
脚注
- ↑ 鳥取港 - 鳥取県港湾課
- ↑ 霊界物語には「中将」と記されているが、厳密に言うと明治31年に大将に昇進している。日清戦争(明治27~28年)で連合艦隊司令長官を務めたが、その時は中将だったので、そのイメージが残っていたか?
- ↑ みいづ舎版『大地の母 第7巻』「朝陽の夢」162頁〈午後三時頃、幸吉の先導で賀露神社(祭神・木の花咲耶姫)に参拝。潮風にさらされた、枝ぶりのおもしろい松林の境内を逍遥した〉
- ↑ 第38巻第28章「金明水」#に〈岩井の磯ばた〉と書いてあるが、浦富だと思われる。大地の母では〈十六日朝、浦富海岸に上陸した〉としている。
- ↑ 『大本教学』第7号収録「出口王仁三郎聖師歌碑集録(木庭次守・記)」(昭和45年2月現在の情報)