「天恩郷の三基の歌碑」の版間の差分
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'''天恩郷の三基の歌碑'''(てんおんきょうの さんきの かひ)とは、昭和8年(1933年)11月25日に[[天恩郷]]内に建立された三基の歌碑のことである<ref>「天恩郷の三基の歌碑」という固有名詞なのではなく、オニペディアにおいて便宜的に名付けただけである。</ref>。かつては「'''東光苑歌碑'''」と呼ばれていた。[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後三基とも再建された。 | '''天恩郷の三基の歌碑'''(てんおんきょうの さんきの かひ)とは、昭和8年(1933年)11月25日に[[天恩郷]]内に建立された三基の歌碑のことである<ref>「天恩郷の三基の歌碑」という固有名詞なのではなく、オニペディアにおいて便宜的に名付けただけである。</ref>。かつては「'''東光苑歌碑'''」と呼ばれていた。[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後三基とも再建された。 | ||
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中央の一基を「'''教歌碑'''」と呼び、左右の二基を「'''懐古歌碑'''」と呼ぶ。ただし名称は一定していない。下記のように教歌碑を「教碑」「神声歌碑」と呼んだり、懐古歌碑を「追懐歌碑」と呼んでいる場合もある。 | 中央の一基を「'''教歌碑'''」と呼び、左右の二基を「'''懐古歌碑'''」と呼ぶ。ただし名称は一定していない。下記のように教歌碑を「教碑」「神声歌碑」と呼んだり、懐古歌碑を「追懐歌碑」と呼んでいる場合もある。 | ||
+ | * 『[[神の国 (1921)|神の国]]』昭和9年2月号93頁に〈天恩郷の歌碑は中央を「教碑」左右を「追懐碑」とそれぞれ今度聖師によつて命名された〉とある。 | ||
* 『[[大本写真大観]]』(昭和9年8月刊)<ref>みいづ舎復刻版では136頁</ref>では三基全体を「東光苑歌碑」と呼び、中央を「教碑」、左右を「懐古歌碑」と呼んでいる。 | * 『[[大本写真大観]]』(昭和9年8月刊)<ref>みいづ舎復刻版では136頁</ref>では三基全体を「東光苑歌碑」と呼び、中央を「教碑」、左右を「懐古歌碑」と呼んでいる。 | ||
* 『[[出口総裁歌碑集]]』(昭和10年1月刊)では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。 | * 『[[出口総裁歌碑集]]』(昭和10年1月刊)では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。 | ||
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現在の大本教団では「教歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいるようである<ref>【例】天恩郷のパンフレットや、『みろくのよ』平成24年(2012年)4月号、21頁「現在の東松林には、南向きに教歌碑(中央)と懐古歌碑(左右に一基ずつ)が立っていた」。</ref>。 | 現在の大本教団では「教歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいるようである<ref>【例】天恩郷のパンフレットや、『みろくのよ』平成24年(2012年)4月号、21頁「現在の東松林には、南向きに教歌碑(中央)と懐古歌碑(左右に一基ずつ)が立っていた」。</ref>。 | ||
− | 本項では現在の大本教団に準拠して「教歌碑」「懐古歌碑」と呼ぶことにする。戦前は三基全体を「'''東光苑歌碑''' | + | 本項では現在の大本教団に準拠して「教歌碑」「懐古歌碑」と呼ぶことにする。戦前は三基全体を「'''東光苑歌碑'''」と呼んでいたようだが、現在は、三基全体を呼ぶ時には「教歌碑・懐古歌碑」と呼んだり、代表して「教歌碑」と呼んだりするようである。本項の「天恩郷の三基の歌碑」という呼び方は、記事を書くために便宜的に付けた名前である。 |
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− | * | + | * 昭和8年(1933年)11月25日(旧10月8日):天恩郷の東光苑に建立された教歌碑と追懐歌碑二基、計三基の除幕式が行われた。同じ日に、月照山山麓に建立された[[前田夕暮]]の歌碑の除幕式も行われている。どちらの除幕式も大勢の歌人が参列して行われた。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5229|内外多事}}」</ref> <ref>『神の国』昭和9年(1934年)1月号125頁</ref> |
* [[第二次大本事件]]で破壊される。 | * [[第二次大本事件]]で破壊される。 | ||
* 昭和37年(1962年)8月7日、教歌碑が再建される。(大本開教70年記念) | * 昭和37年(1962年)8月7日、教歌碑が再建される。(大本開教70年記念) | ||
− | * | + | * 昭和46年(1971年)8月6日、二基の懐古歌碑が再建される。(王仁三郎生誕100年記念) |
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+ | 戦後再建された三基の歌碑が建っている場所は、戦前の歌碑の位置とは少し異なる。 | ||
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+ | ファイル:出口王仁三郎(東光苑歌碑前).jpg|昭和10年(1935年)4月、東光苑歌碑の前にて。 | ||
+ | ファイル:天恩郷の三基の歌碑2012-1.jpg|三基の歌碑(2012年8月撮影) | ||
+ | ファイル:天恩郷の三基の歌碑2012-4.jpg|左側の懐古歌碑 | ||
+ | ファイル:天恩郷の三基の歌碑2012-2.jpg|中央の教歌碑 | ||
+ | ファイル:天恩郷の三基の歌碑2012-3.jpg|右側の懐古歌碑 | ||
+ | </gallery> | ||
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+ | == 関連項目 == | ||
+ | * [[本宮山の三基の石碑]] | ||
+ | * [[出口王仁三郎の歌碑]] | ||
== 脚注 == | == 脚注 == |
2024年7月29日 (月) 23:19時点における最新版
天恩郷の三基の歌碑(てんおんきょうの さんきの かひ)とは、昭和8年(1933年)11月25日に天恩郷内に建立された三基の歌碑のことである[1]。かつては「東光苑歌碑」と呼ばれていた。第二次大本事件で破壊されたが、戦後三基とも再建された。
名称
中央の一基を「教歌碑」と呼び、左右の二基を「懐古歌碑」と呼ぶ。ただし名称は一定していない。下記のように教歌碑を「教碑」「神声歌碑」と呼んだり、懐古歌碑を「追懐歌碑」と呼んでいる場合もある。
- 『神の国』昭和9年2月号93頁に〈天恩郷の歌碑は中央を「教碑」左右を「追懐碑」とそれぞれ今度聖師によつて命名された〉とある。
- 『大本写真大観』(昭和9年8月刊)[2]では三基全体を「東光苑歌碑」と呼び、中央を「教碑」、左右を「懐古歌碑」と呼んでいる。
- 『出口総裁歌碑集』(昭和10年1月刊)では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。
- 『出口王仁三郎全集 第七巻(歌集)』(昭和10年8月刊)[3]では「教歌碑」「追懐歌碑」と呼んでいる。
- 「皇道大本 綾部総本部 亀岡本部 見取図」[4]では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。
名称は戦後も一定していない。
- 「大本年表」の昭和8年11月25日の項[5]では「教歌碑」「追懐歌碑」と呼んでいる。
- 「大本年表(まつのよ6号付録)」[6]では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる[7]。
- 『大本七十年史 下巻』(昭和42年刊)では「教碑」「懐古歌碑」と呼んでいる場合が多いが[8]、「教碑」「追懐碑」と呼んでいる場合もある[9]。
現在の大本教団では「教歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいるようである[10]。
本項では現在の大本教団に準拠して「教歌碑」「懐古歌碑」と呼ぶことにする。戦前は三基全体を「東光苑歌碑」と呼んでいたようだが、現在は、三基全体を呼ぶ時には「教歌碑・懐古歌碑」と呼んだり、代表して「教歌碑」と呼んだりするようである。本項の「天恩郷の三基の歌碑」という呼び方は、記事を書くために便宜的に付けた名前である。
歌
【教歌碑(中央)】
鶴山に妻は錦の機を織り吾亀岡に万代を教ふ
【懐古歌碑(右)】
いとけなき頃は雲間に天守閣白壁はえしを懐かしみけり
旧城跡落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ
【懐古歌碑(左)】
玉の井の池に湧き立つ真清水はみつの三魂の命なりけり
寝ながらに月を仰ぎしあばら家のむかしの住居吾眼に新らし
(『出口王仁三郎全集 第七巻』「巻上#」にフリガナ付きの歌が掲載されている)
略史
- 昭和8年(1933年)11月25日(旧10月8日):天恩郷の東光苑に建立された教歌碑と追懐歌碑二基、計三基の除幕式が行われた。同じ日に、月照山山麓に建立された前田夕暮の歌碑の除幕式も行われている。どちらの除幕式も大勢の歌人が参列して行われた。[11] [12]
- 第二次大本事件で破壊される。
- 昭和37年(1962年)8月7日、教歌碑が再建される。(大本開教70年記念)
- 昭和46年(1971年)8月6日、二基の懐古歌碑が再建される。(王仁三郎生誕100年記念)
戦後再建された三基の歌碑が建っている場所は、戦前の歌碑の位置とは少し異なる。
ギャラリー
関連項目
脚注
- ↑ 「天恩郷の三基の歌碑」という固有名詞なのではなく、オニペディアにおいて便宜的に名付けただけである。
- ↑ みいづ舎復刻版では136頁
- ↑ 口絵写真、及び本文2頁
- ↑ 『大本写真大観』みいづ舎復刻版の付録として付いている第二次大本事件裁判資料。8頁に亀岡本部の見取図がある。
- ↑ 『[[大本教学 (教学誌)|]] 第13号』収録「大本年表(七)」
- ↑ 平成15年(2003年)発行
- ↑ 昭和8年、昭和37年・46年再建、3ヶ所とも。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「内外多事#」など
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「神苑の造営と祭事#」
- ↑ 【例】天恩郷のパンフレットや、『みろくのよ』平成24年(2012年)4月号、21頁「現在の東松林には、南向きに教歌碑(中央)と懐古歌碑(左右に一基ずつ)が立っていた」。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「内外多事#」
- ↑ 『神の国』昭和9年(1934年)1月号125頁