「比沼麻奈為神社」の版間の差分

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(宮司)
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'''比沼麻奈為神社'''(ひぬまないじんじゃ)は、京都府京丹後市峰山町久次に鎮座する神社。主祭神・[[豊受大神]]。通称「元外宮」。
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[[ファイル:比沼麻奈為神社1.jpg|thumb|比沼麻奈為神社の鳥居。平成20年(2008年)9月撮影。]]
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[[ファイル:比沼麻奈為神社2.jpg|thumb|比沼麻奈為神社の社殿。平成20年(2008年)9月撮影。]]
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'''比沼麻奈為神社'''(ひぬまないじんじゃ)は、京都府京丹後市峰山町久次に鎮座する神社。主祭神・[[豊受大神]]。通称「[[元外宮]]」。
  
  
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== 久次岳と磐座 ==
 
== 久次岳と磐座 ==
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[[ファイル:比沼麻奈為神社3磐座.jpg|thumb|比沼麻奈為神社の社叢にある磐座。平成20年(2008年)9月撮影。]]
  
 
比沼麻奈為神社は[[久次岳]](ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している(麓の標高は50m前後)。
 
比沼麻奈為神社は[[久次岳]](ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している(麓の標高は50m前後)。
  
「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊(クシビ))の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次(くし)の里」、そして「久次(ひさつぎ)」と呼ばれるようになった。<ref name="manaijinjya_pamphlet">比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)</ref>
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「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊《クシビ》)の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次《くし》の里」、そして「久次《ひさつぎ》」と呼ばれるようになった。<ref name="manaijinjya_pamphlet">比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)</ref>
  
 
久次岳は「九州の天忍穂井(アメノオシホイ)の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰」<ref name="manaijinjya_pamphlet" />であるため、「真名井岳」とも呼ばれる。
 
久次岳は「九州の天忍穂井(アメノオシホイ)の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰」<ref name="manaijinjya_pamphlet" />であるため、「真名井岳」とも呼ばれる。
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== 宮司 ==
 
== 宮司 ==
 
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* 『[[新月の光]]』によると王仁三郎は、[[杉庵思軒]][[山口志道]]のこと)は比沼真奈井の神官を務めたことがあると語っていた<ref>[[新月の光]]』0633「杉庵思軒と中村孝道」(昭和18年の発言):「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」</ref>。(ただしこれは王仁三郎の誤解だという指摘がある<ref>『[[大本言霊学]]』(八幡書店)p242で大宮司朗が「王仁三郎が「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」(昭和十八年)と誤ったことをいっている」と指摘している。</ref>
* [[杉庵思軒]](『[[水穂伝]]』の著者)が宮司を務めていた。<ref>[[新月の光]]0633「杉庵思軒と中村孝道」:「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神宮司になった人である」</ref>
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* [[王仁三郎]]の実弟(上田家の三男)の[[上田幸吉]]が、大正4年(1915年)から昭和13年(1938年)まで24年間、宮司を務めていた。下の引用文を参照。
* [[王仁三郎]]の実弟(上田家の三男)の[[上田幸吉]]が、大正4年(1915年)から昭和13年(1938年)まで24年間、宮司を務めていた。下の引用文を参照(ただし異説もある<ref>『おほもと』昭和38年(1963年)6月号p50の窪田英治「霊蹟ルポ⑨比沼麻奈為神社」には、上田幸吉が神主をつとめたのは「大正三年から三十年間」と記されている。つまり大正3年(1914年)から昭和19年(1944年)までとなる。</ref>)。
 
  
 
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同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父捨治(すてはる)氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。
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同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父 捨治《すてはる》氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。
 
|大本教学研鑽誌『[[まつのよ]]』第4号(1999年発行)収録、[[三ツ野眞三郎]]著「花、天より高く(上)」p179
 
|大本教学研鑽誌『[[まつのよ]]』第4号(1999年発行)収録、[[三ツ野眞三郎]]著「花、天より高く(上)」p179
 
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ただし異説もあり、『[[おほもと]]』昭和38年(1963年)6月号p50の[[窪田英治]]「霊蹟ルポ⑨比沼麻奈為神社」には、上田幸吉が神主をつとめたのは「大正三年から三十年間」と記されている。つまり大正3年(1914年)から昭和19年(1944年)までの30年間となる。
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『[[真如能光]]』大正15年(1926年)4月25日号「天恩郷だより」p89に「比沼真奈井神社々司聖師様令弟中澤幸吉氏並に令息来郷後郷里穴太へ」とある。上田幸吉は社家の中沢家に養子に入った?
  
 
== 元の鎮座地は本宮山 ==
 
== 元の鎮座地は本宮山 ==
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丹波は元田場(たば)と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。
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丹波は元 田場《たば》と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。
 
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『[[大本教開祖御伝記]]』には──出口家の遠祖は丹波道主命([[開化天皇]]の孫)であり、四道将軍の一人として丹波に派遣され、何鹿に住み着いた。その子孫の綾津彦命が綾部に住み、豊受大神を祭った。それが後に久次に遷って比沼麻奈為神社となり、さらに伊勢に遷った。綾部の出口家が本家で、伊勢外宮の社家の出口家(渡会家)は分家である──と記されている。<ref>『[[聖師伝]]』でも、本宮山→久次(比沼)→伊勢の順で遷ったと解釈している。〈むかし、豊受大神様は現在大本の神苑になっている綾部の本宮山に奉斎されてあったのでありますが、その後、丹波国丹波郡丹波村比沼の真奈井ヶ岳の麓、今の中郡五箇村字久次の御神境に遷座されました。そして雄略天皇の二十三年伊勢へ御遷宮になります時、上田家の邸内が御旅所になりましたので、上田家の一族はよろこび勇んで鄭重に齋かれました〉〔{{obc|B100800c02|穴太の里}}〕。</ref>
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{{inyou| 出口家の遠祖は丹波道主命《たんばみちぬしのみこと》に出づ。命は開化天皇の妃 田庭竹野姫《たにはたけのひめ》の子 彦由牟須美命《ひこゆむすみのみこと》の裔なり。道主命は崇神天皇の十年癸巳《きし》教化の将軍を四道に派遣して四民を教化せしめんと即ち命が祖先の出産地たる縁故を以て、天皇の特旨に依り丹波に派遣されたるが、命の教化の力能く功を奏し、終に丹波の何鹿の里に居を構へ威望四隣を圧したりしが、命の後裔なる綾津彦命《あやつひこのみこと》は綾部の郷 神戸《かんべ》の地を卜して永住し、豊受大神を奉祀し居たりしに後《のち》神勅に依りて丹波郡丹波村比沼真奈井が岳の麓なる現今中郡五箇村字久次の神境に移し祭り子孫相継ぎ奉仕せしが、雄略天皇の二十二年戊午《ぼご》天照大御神、天皇の御夢に現はれ給ひて、豊受大神を神が兄《せ》の伊勢の国山田が原に遷し祀るべく詔らせ給ひしより、天皇は神勅を奉じ、直ちに豊受大神を山田原に迎へ玉ひしが、其時神霊に奉侍して移り住みしは出口家の分家なり。今に山田に出口家の子孫現存す。又本家たりし出口氏は現今綾部の地に子孫繁栄して、同姓を名告る者殊に多し。斯る深き神縁によりて神道界の英傑開祖直霊女史の現出せしも亦不思議と謂ふベし。只惜むらくは中世祝融子の見舞ふ処となり、詳細なる記録系図等の煙滅せし事なり。|[[百済博士]](出口王仁三郎)著『[[大本教開祖御伝記]]』16頁}}
  
 
「[[故郷乃弐拾八年]]」には、本宮山から久次へ、そして伊勢へと遷座して行ったのではなく、<u>本宮山から直接伊勢へ遷座した</u>と記されている。(次の<u>下線部</u>)
 
「[[故郷乃弐拾八年]]」には、本宮山から久次へ、そして伊勢へと遷座して行ったのではなく、<u>本宮山から直接伊勢へ遷座した</u>と記されている。(次の<u>下線部</u>)
  
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 雄略天皇の勅命に依って、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿御駐輦あらせられたのである。(略)
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 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿《しんよ》御駐輦《ごちゆうれん》あらせられたのである。(略)
  
 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であった。そして天真奈井川原(あめのまないがわら)と云うのは、現今の和知川原の事である。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡久次村の真奈為が嶽の麓に、神社の旧蹟を移遷したと云う伝説が古来行なわれて居ったのである。然うすると、<u>綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座</u>の途中、曾我部の郷に、一時、御旅所として御駐輦になったのである。
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 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原《あめのまなゐがはら》と云ふのは、現今の和知川原《わちがはら》のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡《なかごほり》久次村《ひさつぎむら》の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、<u>綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座</u>の途中、曽我部の郷に一時御旅所《おたびしよ》として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳《のぶよし》は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。
 
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|『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』「{{obc|B121808c07|穴太の名義}}」及び「{{obc|B121808c08|綾部の聖地}}」(原題「故郷乃弐拾八年」、『[[神霊界]]』大正10年2月号掲載)
 太古、同社の神職は綾部の出口家が奉仕して居ったと曰う事であるが、後世に到って、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝わって居る。彼の有名なる神道家・出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で最も電要なる家格の人であったのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明礼を創建して奉仕せし藤原家の末裔たる王仁(わたし)が、太古の神縁ある綾部に来たりて、出口家の相続者と成ったのも不可思議な神縁で在ると思う。
 
|『[[出口王仁三郎著作集]] 第五巻』収録「生いたちの記」<ref>[http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c103 「生いたちの記」]</ref>(原題「故郷乃弐拾八年」、『神霊界』大正10年2月号掲載)
 
 
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霊界物語には比沼麻奈為神社そのものは登場しないが、神の降臨地である久次岳とその周辺の原野が「真名井山」「真名井ケ原」と呼ばれ、またそれら聖域の総称として「比沼真名井」と呼ばれている。→詳細は「[[比沼の真名井]]」を見よ
 
霊界物語には比沼麻奈為神社そのものは登場しないが、神の降臨地である久次岳とその周辺の原野が「真名井山」「真名井ケ原」と呼ばれ、またそれら聖域の総称として「比沼真名井」と呼ばれている。→詳細は「[[比沼の真名井]]」を見よ
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
* [[比沼の真名井]]
 
* [[比沼の真名井]]
 
* [[元伊勢皇大神社]]:霊界物語で伊勢神宮内宮(天照大神)の最初の鎮座地とされる。
 
* [[元伊勢皇大神社]]:霊界物語で伊勢神宮内宮(天照大神)の最初の鎮座地とされる。
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* [[元外宮]]:伝承地は複数ある。
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* [[比治山]]
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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* <wp>豊受大神宮</wp> - 伊勢神宮の外宮
 
* <wp>豊受大神宮</wp> - 伊勢神宮の外宮
  
[[Category:神社|ひぬまないしんしや]]
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== 脚注 ==
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<references/>
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{{デフォルトソート:ひぬまないしんしや}}
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[[Category:神社]]
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[[Category:秀逸な記事]]

2024年7月27日 (土) 11:06時点における最新版

比沼麻奈為神社の鳥居。平成20年(2008年)9月撮影。
比沼麻奈為神社の社殿。平成20年(2008年)9月撮影。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は、京都府京丹後市峰山町久次に鎮座する神社。主祭神・豊受大神。通称「元外宮」。


由緒

比沼麻奈為神社の創建は神代。雄略天皇の夢に現れた天照大神のお告げにより伊勢の地に豊受大神を遷座することになった。それが現在の伊勢神宮の外宮であり、遷座元の比沼麻奈為神社は「元外宮」と呼ばれる。

 多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。

 其の後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に、御鎮座になりました。その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給ふて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御縷も安く聞召されぬ、就いては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遺し、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御遷座あらせられたのが、雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈爲神社であります。

 古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣・された四道将軍の丹波道主命は、其の御子、八乎止女(ヤオトメ)を斉女として厚く奉斉されており、延喜年間(西暦九百年)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈爲神社と戴せられている古いお社で、此の地方では昔、〝真名井大神宮〟とか〝豊受大神宮〟と呼ばれていた様で、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。

出典:比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)より

久次岳と磐座

比沼麻奈為神社の社叢にある磐座。平成20年(2008年)9月撮影。

比沼麻奈為神社は久次岳(ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している(麓の標高は50m前後)。

「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊《クシビ》)の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次《くし》の里」、そして「久次《ひさつぎ》」と呼ばれるようになった。[1]

久次岳は「九州の天忍穂井(アメノオシホイ)の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰」[1]であるため、「真名井岳」とも呼ばれる。

その山頂近くに、古代、豊受大神が鎮座したと言われる「大神社(オオガミノモリ)」があり、老樹鬱蒼した中に巨岩がいくつも存在する。この森の近くに「降神岩」、山の中腹には真名井の水を移されたと伝えられる「穂井の段」、大神が五穀や種々の御饌物を天神に奉られた机代(ツクエシロ)の石と伝えられる「應石(おおみあえ石)」がある。[1]

宮司

  • 新月の光』によると王仁三郎は、杉庵思軒山口志道のこと)は比沼真奈井の神官を務めたことがあると語っていた[2]。(ただしこれは王仁三郎の誤解だという指摘がある[3]
  • 王仁三郎の実弟(上田家の三男)の上田幸吉が、大正4年(1915年)から昭和13年(1938年)まで24年間、宮司を務めていた。下の引用文を参照。

同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父 捨治《すてはる》氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。

出典:大本教学研鑽誌『まつのよ』第4号(1999年発行)収録、三ツ野眞三郎著「花、天より高く(上)」p179

ただし異説もあり、『おほもと』昭和38年(1963年)6月号p50の窪田英治「霊蹟ルポ⑨比沼麻奈為神社」には、上田幸吉が神主をつとめたのは「大正三年から三十年間」と記されている。つまり大正3年(1914年)から昭和19年(1944年)までの30年間となる。

真如能光』大正15年(1926年)4月25日号「天恩郷だより」p89に「比沼真奈井神社々司聖師様令弟中澤幸吉氏並に令息来郷後郷里穴太へ」とある。上田幸吉は社家の中沢家に養子に入った?

元の鎮座地は本宮山

久次の比沼麻奈為神社の元の鎮座地は綾部の本宮山であると王仁三郎は述べている。

丹波は元 田場《たば》と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。

出典:第37巻第1章富士山」/a225-a230#


本宮山はもと本居山と書きホンゴ山と称へられて居た。そして豊受大神様を御祭り申上てあつたのであるが、それが後世比沼の真奈井にお移りになつたのである。

出典:月鏡「歴史談片」-a033#

大本教開祖御伝記』には──出口家の遠祖は丹波道主命(開化天皇の孫)であり、四道将軍の一人として丹波に派遣され、何鹿に住み着いた。その子孫の綾津彦命が綾部に住み、豊受大神を祭った。それが後に久次に遷って比沼麻奈為神社となり、さらに伊勢に遷った。綾部の出口家が本家で、伊勢外宮の社家の出口家(渡会家)は分家である──と記されている。[4]

 出口家の遠祖は丹波道主命《たんばみちぬしのみこと》に出づ。命は開化天皇の妃 田庭竹野姫《たにはたけのひめ》の子 彦由牟須美命《ひこゆむすみのみこと》の裔なり。道主命は崇神天皇の十年癸巳《きし》教化の将軍を四道に派遣して四民を教化せしめんと即ち命が祖先の出産地たる縁故を以て、天皇の特旨に依り丹波に派遣されたるが、命の教化の力能く功を奏し、終に丹波の何鹿の里に居を構へ威望四隣を圧したりしが、命の後裔なる綾津彦命《あやつひこのみこと》は綾部の郷 神戸《かんべ》の地を卜して永住し、豊受大神を奉祀し居たりしに後《のち》神勅に依りて丹波郡丹波村比沼真奈井が岳の麓なる現今中郡五箇村字久次の神境に移し祭り子孫相継ぎ奉仕せしが、雄略天皇の二十二年戊午《ぼご》天照大御神、天皇の御夢に現はれ給ひて、豊受大神を神が兄《せ》の伊勢の国山田が原に遷し祀るべく詔らせ給ひしより、天皇は神勅を奉じ、直ちに豊受大神を山田原に迎へ玉ひしが、其時神霊に奉侍して移り住みしは出口家の分家なり。今に山田に出口家の子孫現存す。又本家たりし出口氏は現今綾部の地に子孫繁栄して、同姓を名告る者殊に多し。斯る深き神縁によりて神道界の英傑開祖直霊女史の現出せしも亦不思議と謂ふベし。只惜むらくは中世祝融子の見舞ふ処となり、詳細なる記録系図等の煙滅せし事なり。
出典:百済博士(出口王仁三郎)著『大本教開祖御伝記』16頁

故郷乃弐拾八年」には、本宮山から久次へ、そして伊勢へと遷座して行ったのではなく、本宮山から直接伊勢へ遷座したと記されている。(次の下線部

 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿《しんよ》御駐輦《ごちゆうれん》あらせられたのである。(略)

 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原《あめのまなゐがはら》と云ふのは、現今の和知川原《わちがはら》のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡《なかごほり》久次村《ひさつぎむら》の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座の途中、曽我部の郷に一時御旅所《おたびしよ》として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳《のぶよし》は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。

出典:『出口王仁三郎全集 第八巻』「穴太の名義#」及び「綾部の聖地#」(原題「故郷乃弐拾八年」、『神霊界』大正10年2月号掲載)

上記によると、丹波村は現在の綾部であった。

霊界物語の比沼真名井

霊界物語には比沼麻奈為神社そのものは登場しないが、神の降臨地である久次岳とその周辺の原野が「真名井山」「真名井ケ原」と呼ばれ、またそれら聖域の総称として「比沼真名井」と呼ばれている。→詳細は「比沼の真名井」を見よ

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)
  2. 新月の光』0633「杉庵思軒と中村孝道」(昭和18年の発言):「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」
  3. 大本言霊学』(八幡書店)p242で大宮司朗が「王仁三郎が「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」(昭和十八年)と誤ったことをいっている」と指摘している。
  4. 聖師伝』でも、本宮山→久次(比沼)→伊勢の順で遷ったと解釈している。〈むかし、豊受大神様は現在大本の神苑になっている綾部の本宮山に奉斎されてあったのでありますが、その後、丹波国丹波郡丹波村比沼の真奈井ヶ岳の麓、今の中郡五箇村字久次の御神境に遷座されました。そして雄略天皇の二十三年伊勢へ御遷宮になります時、上田家の邸内が御旅所になりましたので、上田家の一族はよろこび勇んで鄭重に齋かれました〉〔穴太の里#〕。