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* 明治4年(1871年)、[[中野武営]](たけなか、ぶえい。1848~1918年)の長男として香川県高松で生まれる。<ref>『中野武営翁の七十年』135頁{{ndldl|1225198/1/92}}、529頁{{ndldl|1225198/1/289}}</ref> <ref name="B195402c8514">『大本七十年史』「大本能の歩み」</ref> | * 明治4年(1871年)、[[中野武営]](たけなか、ぶえい。1848~1918年)の長男として香川県高松で生まれる。<ref>『中野武営翁の七十年』135頁{{ndldl|1225198/1/92}}、529頁{{ndldl|1225198/1/289}}</ref> <ref name="B195402c8514">『大本七十年史』「大本能の歩み」</ref> | ||
− | * 父・武営は、衆議院議員・東京市会議長・東京商工会議所二代会頭(初代は渋沢栄一)など代議士・実業家として活躍した。宝生流の名人・松林鶴叟(1807~1889年)の門弟。 | + | ** 父・武営は、衆議院議員・東京市会議長・東京商工会議所二代会頭(初代は渋沢栄一)など代議士・実業家として活躍した。宝生流の名人・松林鶴叟(1807~1889年)の門弟。 |
* 明治17年(1884年)13歳の時、父の師匠である松林鶴叟に入門する。東京大学法科を卒業した後も、謡を命尾寿六、型を松本金太郎に師事して能を学んだ。〈先代宝生九郎の信任もっともあつく、「素人宝生九郎」とまでいわれ、名人の域に達し、大正期の能楽界に宝生流の代表格として活躍した〉<ref name="syouden_p112">『出口日出麿先生小伝』112頁</ref>。<ref name="B195402c8514" /> <ref>『出口日出麿先生小伝』112頁には〈東大法科卒業後(略)名人松林鶴叟の門に入り、能を学んだ〉と書いてあるが、松林鶴叟が亡くなった時、岩太は18歳なので、卒業後に学んだというのは無理がある。誤記であろう。</ref> | * 明治17年(1884年)13歳の時、父の師匠である松林鶴叟に入門する。東京大学法科を卒業した後も、謡を命尾寿六、型を松本金太郎に師事して能を学んだ。〈先代宝生九郎の信任もっともあつく、「素人宝生九郎」とまでいわれ、名人の域に達し、大正期の能楽界に宝生流の代表格として活躍した〉<ref name="syouden_p112">『出口日出麿先生小伝』112頁</ref>。<ref name="B195402c8514" /> <ref>『出口日出麿先生小伝』112頁には〈東大法科卒業後(略)名人松林鶴叟の門に入り、能を学んだ〉と書いてあるが、松林鶴叟が亡くなった時、岩太は18歳なので、卒業後に学んだというのは無理がある。誤記であろう。</ref> | ||
* 後に命尾流(宝生流の一派)を継ぎ、茗水会を興した。門弟には[[平沼騏一郎]]もいた。<ref name="syouden_p112" /> | * 後に命尾流(宝生流の一派)を継ぎ、茗水会を興した。門弟には[[平沼騏一郎]]もいた。<ref name="syouden_p112" /> |
2024年7月25日 (木) 15:15時点における最新版
中野茗水(なかの めいすい。1871~1957年)は、宝生流(ほうしょうりゅう)の能楽師。出口三千麿の実父。本名は岩太。後に武英(たけひで)に改名した[1] [2]。
略歴
- 明治4年(1871年)、中野武営(たけなか、ぶえい。1848~1918年)の長男として香川県高松で生まれる。[3] [4]
- 父・武営は、衆議院議員・東京市会議長・東京商工会議所二代会頭(初代は渋沢栄一)など代議士・実業家として活躍した。宝生流の名人・松林鶴叟(1807~1889年)の門弟。
- 明治17年(1884年)13歳の時、父の師匠である松林鶴叟に入門する。東京大学法科を卒業した後も、謡を命尾寿六、型を松本金太郎に師事して能を学んだ。〈先代宝生九郎の信任もっともあつく、「素人宝生九郎」とまでいわれ、名人の域に達し、大正期の能楽界に宝生流の代表格として活躍した〉[5]。[4] [6]
- 後に命尾流(宝生流の一派)を継ぎ、茗水会を興した。門弟には平沼騏一郎もいた。[5]
- 能面師の中村直彦から大本の存在を聞いて、大正8年(1919年)に入信。大正14年(1925年)には信教宣伝使に任ぜられた。[4]
- 大正12年(1923年)9月、関東大震災で家が焼け、綾部・並松の松雲閣に移住する。それ以降、三代教主(出口直日)に宝生流を教えた。[4]
- 松雲閣はもともと中野岩太が別荘として大正10年(1921年)に建てた建物である。 →「松雲閣」
- 昭和6年(1931年)8月19日、四男の貞四郎は出口尚江と結婚した。貞四郎は王仁三郎から「三千麿」と命名された。[7]
- 昭和32年(1957年)8月5日、帰幽。享年86歳。[4]
参考文献
- 『大本七十年史 下巻』「大本能の歩み#」
- 梅松祭記念出版委員会・編『出口日出麿先生小伝』昭和42年(1967年)、天声社、112頁、NDLDL蔵書
- 薄田貞敬・編『中野武営翁の七十年』昭和9年(1934年)、中野武営伝編纂会、NDLDL蔵書
- 金沢美術館のチラシ「加賀宝生と中野家」
外部リンク
脚注
- ↑ 『真如の光』昭和2年(1927年)4月15日号、76頁に「岩太」から「武英」への改名広告あり。
- ↑ 『中野武営翁の七十年』29頁、135頁。
- ↑ 『中野武営翁の七十年』135頁NDLDL蔵書、529頁NDLDL蔵書
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 『大本七十年史』「大本能の歩み」
- ↑ 5.0 5.1 『出口日出麿先生小伝』112頁
- ↑ 『出口日出麿先生小伝』112頁には〈東大法科卒業後(略)名人松林鶴叟の門に入り、能を学んだ〉と書いてあるが、松林鶴叟が亡くなった時、岩太は18歳なので、卒業後に学んだというのは無理がある。誤記であろう。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「二代教主と鶴山織#」