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玉鉾神社(たまほこじんじゃ)は、愛知県武豊町に鎮座する、孝明天皇を祀る神社。
概要
- 鎮座地:愛知県知多郡武豊町向陽2-17
- 創建者:旭形亀太郎(1842~1901年)
- 創建年:明治32年(1899年)
- 主祭神:孝明天皇(1831~1867年、在位1846~1867年)(神号:玉鉾大神)
- 孝明天皇を主祭神とする神社は、他には京都の平安神宮がある。平安神宮は明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して創建された。創建当初は、遷都を行った第50代桓武天皇だけが祀られていたが、皇紀2600年の昭和15年(1940年)に、平安京最後の天皇である第121代孝明天皇も祭神に加えられた。
- 明治32年11月28日、玉鉾神社建設が認可される。[1]
- 明治33年1月、旭形亀太郎が玉鉾神社の神職に補せられる。[1]
神社建設までの経緯
旭形亀太郎は力士であり、幕末に宮中警備の任に就いていた。力士隊を組織し、その総指揮(隊長)となった。元治元年(1864年)禁門の変の際には孝明天皇の身辺を護り、その功績により〈照る影をひら手にうけし旭形 千代にかかやくいさをなりけり〉という御製と、錦旗、守護符の五鈷杵(ごこしょ)などを賜った。
江馬盛「諸国相撲帖」及び武者成一『史談 土俵のうちそと』〔354~358頁〕によると、玉鉾神社創建に至る経緯は以下のようになる。
明治25年(1892年)8月、旭形は孝明天皇から賜った御物を、市井の人間が私するのは僭越と考え、宮内省に返還した。錦旗は受理されたが、五鈷杵は「子孫に伝えて家宝にせよ」と再び下賜され、また御手許金100円が下賜された。
明治26年(1893年)4月、二位局(中山慶子=孝明天皇の典侍で、明治天皇の生母)[2]から織物や五鈷杵入れの箱などを賜る。[3]
旭形は思し召しの有り難さに感激し、伊勢神宮に参拝し、鹿島大宮司[4]に守護符の御神号を乞う。「孝明天皇御正体 玉鉾大神」という神号を付けてもらい、自宅(大阪市西区江戸堀北通一丁目[5])に御神体を奉斎する。[6]
明治27年(1894年)、二位局(中山慶子)は大阪の旭形家に一泊し、玉鉾大神を参拝した。この時、有栖川宮など6つの宮家から親電が寄せられた。[7]
明治27~28年の日清戦争で、旭形は広島の大本営で奉仕した。広島で、岐阜の大地主・堀田久左衛門と知り合う。旭形は京都に孝明天皇を祀る神社を建立しようと奔走したが賛同者が少なく計画は一時中断していた。それを知った堀田は賛同して、自分が所有する愛知県知多郡武豊町六貫山の土地を譲渡することを申し出た。その縁で旭形は土地を入手した。[8]
明治28年(1895年)9月、旭形は武豊町の鳳翔閣[9]に居を移した。やはり広島で知り合った安中万一、佐藤岩男らの賛成を得て、その筋に神社の建立を願い出た。
明治29年(1896年)8月、神社建設が着工された。神社用地は約1万9千坪あり、名古屋に住む帝室技芸員・伊藤平左衛門が、熱田神宮を模した神社の設計と施工を担当した。
明治30年(1897年)6月、第一期工事が終了する。ところが当局は神社の申請に対し、単に御物のみでは法規上認可できないと却下した[10]。旭形は愛知県知事・沖守固(おき もりかた)[11]等の助言もあり、古くなった八幡社を移転するという形を取って再度申請した。この八幡社は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市[12])に鎮座する尾張国一宮で国幣小社[13]「真清田(ますみだ)神社」[14]の末社の無格社で、古くなったため他に合祀しようとしていたのを譲り受け、武豊町に移転させたのである。[15]
明治32年(1899年)11月28日、当局の認可が下りた。同年12月、真清田神社宮司らによって八幡社の遷宮式が挙行され、同時に「玉鉾神社」に改名された。神官の資格を得るため旭形は勉学に励んだ。
明治33年(1900年)1月、旭形は玉鉾神社の社掌に任命された。
同年5月29日、小松宮彰仁親王が沖知事らを帯同させ、玉鉾神社に公式参拝。記念に松を植える。
旭形はこの年の暮れから病床に伏し、愛知病院に入院。
明治34年(1901年)3月12日[16]、旭形は同病院で逝去。満58歳。
旭形亀太郎の没後
旭形亀太郎の没後は、神社の宝物・什物が外部に流れ、後任の社掌が辞職したり、境外地は債権者の手に渡るなど、混乱が起こり、衰退して行った。[17]
初代・亀太郎の息子・亀之助が二代宮司となったが神職の免状がなく、御用商人として大阪に出て、神社は人任せにしていた。そのため神社の土地は最初の10分の1となり、孝明天皇から拝受した品々も散逸してしまった。[18]
昭和34年(1959年)9月、伊勢湾台風で大打撃を受ける。翌年再築されたが、創建当時よりはるかに小規模なものとなった。[18]
二代宮司・亀之助には子供がなく、元愛媛県新居浜市役所職員の光彦(てるひこ)・幸野(ゆきの)夫妻が養子となり、跡を継ぐことになる。[18]
昭和39年(1964年)7月、三代宮司・旭形光彦が就任し、神社は復興の道を歩み出す。[19]
昭和40年(1965年)11月、東久邇盛厚(ひがしくに もりひろ)王が正式参拝。[19]
三代・光彦の没後は、子息の幸彦が四代宮司となり跡を継いだ。
出口王仁三郎との関わり
出口王仁三郎と玉鉾神社との直接の関わりはないが、間接的に次の関わりがある。
- 旭形の弟子である佐藤紋次郎によると、旭形亀太郎は孝明天皇から宸筆の「経綸書」を預かり、そこには綾部に出口王仁三郎が現れて日本を救うという意味のことが書いてあった。また孝明天皇の御神号「玉鉾の神」は出口直が付けたものだった。
- 三代宮司・旭形光彦は大本の元信者だった。
佐藤紋次郎
玉鉾神社創建者・旭形亀太郎の弟子である佐藤紋次郎(大本名・佐藤徳祥、1868~1946年)が口述した『たまほこのひ可里』によると──(以下の情報は玉鉾神社の公式見解ではなく、あくまでも佐藤紋次郎による情報である)
元治元年(1864年)の禁門の変の時、旭形は孝明天皇を飛弾から身を挺して護り、背中に数個の弾丸を受けた。その功績により、戦いが治まった後、御製を賜った。その時天皇は紫宸殿において旭形へ「神国の秘法」(切紙神示)を伝授し、宸筆の「経綸書」(切紙神示で得られた未来予言書)と「御旗」「数表」を託した。
孝明天皇は「神国の秘法」によって、皇紀2600年に米国が日本に攻め込み、国旗と三種の神宝を奪う仕組をしていると知った。米国は最初に伊勢神宮の神鏡を奪い、次に熱田神宮の神剣を奪い、最後に神璽つまり玉座を奪う計画である。そこで旭形に「自分が死んだら、伊勢と熱田の中間に位置する尾州武豊の地に自分を祀れ。自分は武豊に地に座して皇国を守護する」と命じた。
旭形は孝明天皇の崩御後、神社創建のため奔走したが、なかなか許可が下りなかった。旭形は明治28年(1895年)に武豊に移住して頑張ったが、やはり許可は下りなかった。
万策尽きた旭形は明治29年(1896年)に、綾部の出口直のもとへ教えを乞いに行った。丹波の綾部に「ミロク大神」が現れて日本を救うということも、孝明天皇は皇国の神術によって知っており、それを旭形に教えていたのである。旭形は綾部にミロク大神が出現したことを明治25年(大本開教)からすでに知っていた。旭形は弟子の佐藤を伴い出口直のもとを訪ね、孝明天皇の御神号を下さいと頼んだ。出口直は神様にお伺いをすると「たまほこノ神」という神号が与えられた。
明治32年11月28日にようやく玉鉾神社建設の許可が出た。
明治34年(1901年)元日に、病床の旭形は家族らに遺言をした。佐藤には、孝明天皇から託された経綸書などを預け、「皇紀2600年になったら70歳になる男(王仁三郎のこと)にこれを渡せ。その方が一切を解決して下さる」と遺言した。その年の3月11日に旭形は帰幽した。
佐藤は大本に入信して皇紀2600年(昭和15年)を待ったが、その前の昭和10年(1935年)に第二次大本事件が勃発し王仁三郎は収監されてしまった。佐藤も当局の家宅捜索を受け、経綸書を燃やせと命じられ、やむを得ず焼却してしまった。
昭和17年(1942年)8月7日に王仁三郎は出獄して亀岡に帰宅した。その一ヶ月後の9月7日に佐藤は王仁三郎に面会して、旭形から託されたことを伝えた。
昭和18年(1943年)8月25日、佐藤の証言をまとめた『たまほこのひ可里』が完成した。(昭和21年3月2日、佐藤紋次郎帰幽)
- 佐藤は明治26年(1893年)か27年に名古屋の県庁で、玉鉾神社の敷地登録のため登記簿を書いた。佐藤は神社創建の発起人の一人である。
- 孝明天皇がなぜ下層民の旭形に経綸書などの重要なものを託したのかという疑問に対して佐藤は、当時の公卿たちは孝明天皇を〈狂気召されたかの如く思って〉おり、心底から天皇を信じていたのは旭形しかいなかったから、と語っている。(強硬に攘夷を主張する孝明天皇が宮中で孤立していたことは史実である[20])
- 旭形亀太郎は佐藤に遺言した時に「玉鉾神社には大変な事が起こる。綾部の大本にもここと同様大変な事になる。この玉鉾神社は子孫に伝える訳には行かないので町に寄贈する」と告げている。(没後の神社凋落の予言か?)
→詳細は「たまほこのひ可里」
旭形光彦
出口和明「誌上講座(十四)御経綸の実現・平成十年のあかし」[21]〔17~21頁〕によると──
玉鉾神社の三代宮司・旭形光彦(あさひがた てるひこ)は旧姓を若林という。
大本は昭和21年(1946年)2月に「愛善苑」として新発足した。若林光彦はその当時の愛善苑の信者であった。具体的な入信時期は不明。中矢田農園で奉仕していたこともあった。出口和明は光彦を知らなかったが、出口昭弘(愛善苑奉仕者の第一号)や窪田英治(少年時代からの奉仕者)は光彦を知っていた。光彦は〈一種のボス的存在で、霊がかり的なことが好きで、立替え信仰的なものがあったらしい〉。
昭和21年(1946年)8月29日、出口王仁三郎は発病して病床につく。中矢田農園の熊野館で静養していたが、12月5日夕刻、王仁三郎は天恩郷に新築された瑞祥館へ移った。この時王仁三郎は、手造りの幌付き寝台車に乗り仰臥したまま、8人の奉仕者に台を支えられて移動した。この8人の中に光彦もいた。
昭和23年(1948年)1月19日に王仁三郎は昇天する。昭弘や窪田の記憶では、その時には光彦はもう愛善苑にいなかった。その当時の噂では〈郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった〉。[22]
昭和28年(1953年)に〈光彦氏は神示によって琵琶湖の竹生島に全国から十六人の人を集めて、何かの神事をした〉〈その中に旭形二代目の亀之助の妻静子さんも参加していて、光彦さん夫婦を見て養子になることを懇請した〉。(「何かの神事」とは裏神業系の神業だと思われる[23])
光彦が奉仕時代に王仁三郎から与えられた、王仁三郎揮毫の神像の掛軸と、小さな木彫りの観音像が、玉鉾神社に保存されている。
切紙神示については、光彦は先代から、そういうものがあるということを聞いてはいたが、具体的なこと何も聞いていなかった。光彦・幸野夫婦はどうしても切紙神示について知りたくて、昭和48年(1973年)に大本本部を訪ねた。しかし大本本部では切紙神示について知っている人は一人もいなかった。(平成10年(1998年)2月に出口和明が玉鉾神社を参拝した時に切紙神示を実演して見せた)
その後も二人は何度か大本本部へ参拝した。ある時、二人は出口日出麿に面会できた。日出麿は分厚い座布団の上に座っていたが、案内の者が「玉鉾神社の宮司さんです」と紹介すると日出麿はいきなり座布団から滑りおり、「ようこそいらっしゃいました」と丁重に頭を下げて挨拶した。(それは孝明天皇に対する敬意ではないかと和明は解釈している)
参考文献
→「旭形亀太郎#参考文献」
関連項目
外部リンク
- 玉鉾神社(フェイスブック)
- 玉鉾神社(インスタ)
- 旭形幸彦(現・宮司、フェイスブック)
- 孝明天皇 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 1.0 1.1 『照日乃影』収録「正八位旭形亀太郎小伝」8頁
- ↑ 中山慶子は明治33年1月に従一位。それまでは正二位。
- ↑ 『照日乃影』に、その時の書状が掲載されている。錦旗(カラーページ)の次の次の頁。ノンブル無し。
- ↑ 鹿島則文(かしま のりぶみ、1839~1901年)明治6年(1873年)鹿島神宮の大宮司となる。明治17~31年、伊勢神宮の大宮司を務める。
- ↑ 『史談会速記録』では、元・九鬼の屋敷とある。〔64頁(合本390頁)
- ↑ 『史談会速記録』には〈又玉鉾の神号に付ては明治廿六年十月御旗返上の時御守再び御下賜の際伊勢の大廟へ家内も連れて御礼に参りまして鹿島宮司に面会した。此時鹿島さんに会まして御守を見せ申して御神号を付けて貰うて神様に出来ぬかと申しますと立派に出来る〉とある。〔第274輯63頁(合本389頁)〕
- ↑ 『史談会速記録』では、明治25年に、先着した役人は一泊したが、二位局は汽車の都合で庭までちょっと立ち寄っただけということが語られている。〔64頁(合本390頁)〕
- ↑ 『史談会速記録』では、堀田の地所は奥過ぎるので別の場所に自分で土地を買い入れたと旭形は語っている。〔62頁(合本389頁)〕
- ↑ 「鳳翔閣」とは明治20年(1887年)2月23日に天皇・皇后が武豊港で行われた陸海軍合同演習を天覧するために休息した場所。長尾山(標高32メートル)にあった。鳳翔閣 - 武豊町観光協会
- ↑ 『史談会速記録』では、明治30年12月に内務省に公認願を出し、31年3月不認可となり、同5月に再願書を出し、インタビューが行われている10月8日現在まだ結果が出ていないと旭形は語っている。〔66頁(合本392頁)〕
- ↑ 沖守固は明治31年(1898年)12月から明治35年(1902年)5月まで愛知県知事を務めた。
- ↑ 大正10年から市制実施。
- ↑ 大正3年(1914年)に国幣中社に昇格。
- ↑ 真清田(ますみだ)神社:愛知県一宮市真清田1-2-1。主祭神:天火明命。真清田神社 - ウィキペディア / 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『国幣中社真清田神社御由緒』 PID:957838大正7年(1918年)
- ↑ 大正12年(1923年)発行の『知多郡史 下巻』では、玉鉾神社の祭神は品陀和気命(応神天皇。八幡社の祭神)になっている。NDLDL蔵書
- ↑ 逝去した日は諸説あり。「旭形亀太郎#経歴」を見よ
- ↑ 武者『史談~』357~358頁
- ↑ 18.0 18.1 18.2 武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)
- ↑ 19.0 19.1 太田龍『天皇破壊史』(2002年、成甲書房)に転載されている、平成11年(1999年)頃の玉鉾神社の由緒記による。111頁、115頁。
- ↑ たとえば──家近良樹『孝明天皇と一会桑』2002年、文春文庫、65頁:〈以後、万延元年(一八六〇)に井伊直弼が桜田門外で暗殺されるまで、孝明天皇は失意の時代に入る。(略)十一月の九日付で、左大臣の近衛に宛てて出された宸翰に、「此節にては、私一本立(=独りぼっちで)、相談相手もこれ無く、心細く、大儀過ち有るかと、実に目まひ候事に候」とあったように、孤立的状況に追いやられた〉 / 鍋谷博『孝明天皇の攘夷』1995年、近代文芸社、195頁:〈天皇はお亡くなりになった直後から、毒殺されたのではないかとの噂が流れた。ということは、天皇の生涯は決して平坦なものではなく、その死がだれからも惜しまれるようなものではなかったということを意味する。兵庫の開港にしても、結局は天皇の意志に反して、条約の規定通り実施されてしまった。まことにお気の毒なお方であったと思う。「究極併呑」の考えに取り付かれていたことと思われるが、尊王思想の発達ともに、最高の地位に押し上げられ、攘夷について心から話し合える相談相手もなく、孤独の生涯であったのではないだろうか〉(注「究極併呑」とは外国によって日本が植民地化されるということ)
- ↑ 『神の国』平成10年(1998年)6月号、14~27頁
- ↑ 武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)には、三代宮司になる前は愛媛県新居浜市の市役所に勤務していた旨が記されている。
- ↑ 玉鉾神社に保存されている、この時の神業の記録によると、神業参加者名簿に菰野の辻正道の名が記されている。